応仁元年~やっと戦国に入った^^
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西国のドン・大内氏は応仁の乱西軍、少弐教頼は応仁の乱東軍。
当然ながら両者は激突する。
そんな中、応仁2年に対馬・宗貞国47歳が兄の死によって家督を継いだ。
この宗貞国が朝鮮との交易で得た莫大な利益をもって少弐氏を全面バックアップする。
実のところ、宗氏が少弐に肩入れする理由(本音?)がイマイチ判らなかった。
ちなみに今 大宰府戦国史(吉永正春)って本を読んでいるんだが、そこにも特に触れてなかったなぁ。
しいて想像するなら先例主義の朝鮮と交易するのに「太宰少弐」が必要だったのかも。
同年12月6日、大内サイドの宗像氏弘が大宰府・有智山(うちやま)城を攻め、少弐教頼をキーーック☆ヽ(#゚Д゚)ノ┌┛Σ(ノ´Д`)ノ
有智山城の場所は福岡県太宰府市大字内山で、竈門神社から宝満山一の鳥居に向かう林道沿いに有智山城への入口があります。
だから後世、高橋紹雲や立花宗茂が関わる宝満山城の近くなんです。
築城年代は不明で少弐氏代々の城。
少弐氏の象徴とも言えるべき城でしたが、少弐滅亡と共に改造?され防塁程度の規模になります^^;
城を出た少弐教頼は大内勢に敗れ、筑前・高祖城において自害。
教頼の息子・政資が家督を継ぎます。
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(ロン様作成・少弐家紋ロゴ)
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明けて応仁3年4月、大友親繁が幕命で豊前に攻め入り大内勢と戦っており、応仁の乱は九州にも波及してました。
4月28日・文明に改元
(。-`ω-)ンー、実は自分、文明年間が戦国時代になるのか未だ室町時代なのか迷ってるんです。
(応仁年間は足掛け3年で短かすぎるし)
それで再編集している年表では、文明年間を暫定的に室町(抜粋)年表のカテゴリに入れてました。
それはさておき「歴代鎮西志」によると同年5月(or7月)に少弐政資が大内勢を破って大宰府を奪回します。
おそらく、この時には対馬宗氏が少弐に援兵してたと思います。
大宰府長官だった少弐氏は自前の兵力って少ないですから。
大宰府に復活した少弐政資は五州(筑前・肥前・豊前・壱岐・対馬)太守と仰がれる。
朝鮮との交易は少弐自身も行い莫大な財力を得ており、それは少弐権勢回復に大きく影響していた事でしょう。
この前後に宗貞国は足利義政より御教書をもらい、少弐政資は大宰府を安堵されます。
少弐氏執権は宗盛見と宗貞房。
一方、少弐にとって油断できないのは敵対している九州探題職・渋川教直も朝鮮との交易船を約していたことです。
渋川教直は影の薄い九州探題職・渋川家において最盛期の当主。
彼の代が最盛期だったことに、朝鮮との交易は大きく影響していたでしょう。
さて、さきほど応仁の乱が九州へ波及したと書きましたが、ついには肥前千葉氏の家督にも影響を及ぼしたのだが、それは またの話^-^