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【11-1_千葉氏東西の黎明】通史①肥前千葉氏

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文明4年~7年にかけて千葉氏の記録がガクっと減る。
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家系図・肥前千葉系図・決定
系図をもとに整理すると文明年間における肥前千葉氏は緑枠系譜
長男:政胤は既に死亡
次男:胤朝が当主(後ろ盾:大内氏)
三男:胤盛、胤朝と争う(後ろ盾:少弐氏)
四男:胤将、謀反で担ぎ出されて現在行方不明の空気

てことで当主の椅子とりゲームは次男:胤朝と三男:胤盛の争いとなり、これがそのまま西千葉氏と東千葉氏となっていく。

対馬・宗氏が便利使いされることへの不満から少弐氏から離れて大内寄りになってしまったのだが、
博多から得る交易の利益は、少弐氏の勢威を支えていた。

文明4年9月24日には、少弐氏が杠(ゆずりは)氏に対して知行安堵状を発布している。(杠家文書)
少弐・・・元気です(=^・ω・^=)v ブイ

文明5年に龍造寺家嫡男:豊前守家弘が、千葉胤朝から偏諱を受けて「家弘⇒胤家」を改名する。
のちに龍造寺胤家が西千葉氏に肩入れしたのは、ここらあたりに遠因があったかもです。

文明6年には西肥前の動きが活発。
・有馬貴純が大村領を併合
・西郷尚善が伊左早(諫早)を統一し、高土(諫早)城を築城する。(森山町史)

文明7年には有馬に領地をとられた大村純伊が、家臣を身代わりに潜伏したそうな^^;

で、この4年間の間に兄で当主の千葉胤朝と弟の胤盛の地位が逆転したらしい
考えられる直接の原因としては少弐氏からの圧力で、胤朝が牛頭山城から追い出された。

文明8(1476)2月3日、河上神社文書によると千葉胤盛が、神社の社領で乱暴した高木の者に「高木姓」の使用を禁止している。(川上神社文書)
元河上神社大宮司の系譜だった高木氏の一族を罰するということは、胤盛が実質の当主として振る舞っていたのであろうし、
おそらく河上神社の大宮司も胤朝から胤盛に移っていたのではないだろうか。

追い出された胤朝は、たぶん御近所の晴気城に移ったと思われる。
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地図・晴気と牛頭
こんくらい近所で目と鼻の先レベルですな ( ゚Д゚)y─┛~~

歴代鎮西志によると追い出された胤朝は、同年2月に藤津郡で大村日向守家親を破っているので、藤津へ勢力を広げることによって盛り返そうとしてたみたい。
てか大村は有馬からも千葉からも、やられてばっかり,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

文明9年、千葉氏は平井氏を須古に配置し、有馬・大村への備えとした(江北町史)
後に有馬へ寝返る須古・平井が、須古の歴史に登場する瞬間です(-・-)

同年10月、千葉胤盛は河上社の宝殿へ「大宮司千葉介平胤盛」の名で棟札を納める(千葉氏HP)
この棟札によると兄・胤朝を凌ぎ、弟・胤盛が当主で大宮司だったことが明瞭です。
「千葉介」は千葉氏当主が名乗るものですし|HP|・ ̄)じぃー

戦国時代で、このままで終わるはずがない。
千葉胤盛にとって微妙なことに、この文明9年に「応仁の乱」が終息しちゃうんです。
「応仁の乱」が終わるということは、ドン大内氏に余力復活するということ。

大内VS少弐、即ち、兄・胤朝VS弟・胤盛の争いが始まるのだが、それは またの話^-^

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