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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【11-3_千葉氏東西の黎明】通史①肥前千葉氏

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小城市郷土史研究が進み、かつて嫡流は西千葉と言われていたのが、東千葉氏という解釈が出て、自分自身も史料入手で確認。
ガビ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
とても過去記事の補足でどうにか出来る状況ではないので、全部やりなおす羽目になってる凝り性バカです。
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そんな中で、この方・・・・少弐政資は平常運転。「没落⇒復活⇒また没落」と安定の少弐クオリティ(-人-)☆彡
文明14(1482)年春、少弐政資は足利義政の勘気を蒙り、大宰府から肥前へと移る。
少弐を中興させた政資は暴慢な振る舞いをしてゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.されたのだが、
それを将軍家にチクったのは大内です( ̄ko ̄)

同年4月13日、少弐政資が神埼郡の川上社領を安堵している「川上神社文書」ので、4月の時点で肥前入りしてたと言われてます。
北肥戦誌によると佐賀与賀に城を構え、ここに拠るとあり、かつて少弐教頼が亡命のために住んだ与賀の館を利用しました。
さらに与賀神社を鬼門の鎮護としています。

(藤龍家譜)では龍造寺家氏を頼り、家氏が館を改修したとあるようなんですが年代的に家氏が匿ったのは教頼の方で、政資を匿ったのは龍造寺康家(剛忠(家兼)パパン)だと思います。

同年10月、少弐政資は邪魔な渋川万寿丸の綾部城を攻撃し落とす。
渋川氏は筑前へ亡命しました。
九州の政庁・太宰府の長官である少弐氏は、九州探題である渋川氏と長年対立していました。
渋川単独では九州統治が進まず、室町幕府が大内に渋川を助力するように命じます。
この大義名分の下で大内氏は九州へ介入するようになったという前提あり。

少弐にとって肥前・神埼郡にいる渋川をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!することは、肥前で羽を伸ばすためにも必要なことだったんです。
怒った大内政弘が公儀へ申し立て、将軍家が御教書(=公式文書)を発布。
「近隣の御家人は渋川へ合力せよ(`・ω・´)キリッ」
この将軍家の言葉により、少弐は肥前からも亡命する羽目に・・・・トホホ

文明15(1483)少弐氏は筑前へ進出し大内勢と戦う「佐賀市史」
同年秋・少弐氏は再び綾部城を襲い渋川氏を敗走させる

室町幕府(怒!)
同年10月25日、室町幕府は渋川万寿丸に大内と共に少弐政資を討つよう命じる
歴代鎮西要略によると、文明16(1484)に大内政弘が陶弘仲をして少弐勢を筑前で撃つとあります。

徐々に旗色が悪くなる中で、まだまだ粘る少弐氏なのだが それは またの話^-^

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