筑前では大内勢に後れをとった少弐政資だが、肥前での威光は衰えていなかったようです。
文明17(1485)10月20日、仁比山社(佐賀・神埼郡)の社領を安堵する「佐賀市史」
同年12月3日、光浄寺(佐賀・三養基郡みやき町)の寺領を安堵する「佐賀市史」
といった感じで、神社仏閣の領地安堵は上位者の証明(=^・ω・^=)v ブイ
これらの資料により、少弐が肥前千葉氏に介入するだけの力があったことが覗えます。
翌文明18(1486)4月15日、弟・千葉胤盛が河上実相院に佐賀郡神野などの土地を安堵「佐賀市史・年表」
このころの千葉胤朝・胤盛兄弟は協力関係だったみたいです。

胤盛嫡男・胤棟(のちの興常)が胤朝と養子関係でしたからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
同年、5月17・18日に洪水発生。
豊後・筑後・肥後の人民牛馬が多数死ぬ。
そして洪水が治まったであろう時期に騒動が起きた・・・
同年10月、行方不明だった弟・胤将が蜂起
国府(小城市)を夜襲し、千葉胤朝が討ち死にしてしまう。
謀反張本人の千葉胤将は、少弐政資が討伐に来るという噂を聞くとトンズラ・・・失礼、逐電し再び行方不明となり二度と史料に出てくることはなくなる。
このあたり、少々勘ぐりたくなる。
勘ぐり1)討伐の噂を流したのが少弐本人じゃないか?
勘ぐり2)千葉胤将を唆したのは少弐本人じゃないか?
とはいえ、これはあくまで想像の域を出ず、史料的には何も根拠のない話なので引き出しに仕舞って・・・っと。
とにもかくにも胤朝が戦死したので、千葉氏総領は胤盛の嫡男にして胤朝の養子である胤棟がなるべきで、それで千葉氏の兄弟同士過去に揉めたのは水に流れるはずだった。
が、少弐政資が肥前千葉氏の家督に介入する。
同年12月3日、少弐政資実弟・胤資と戦死した胤朝の娘と結婚し千葉氏を立てる。
千葉肥前守胤資、肥前千葉庶流にして西千葉氏の誕生の瞬間です。
千葉氏総領家は千葉胤盛と胤棟(=興常)の系譜。(`・ω・´)キリッ
その証に親子ともに、千葉家総領の名乗りである「千葉介」を名乗っています。
これは少弐政資による、肥前千葉氏の家督乗っ取り、併呑(へいどん)なのです!
少弐に反発した胤盛、胤棟親子は、大内氏を頼るため一時的に肥前を離れたのだが、それは またの話^-^
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肥前千葉氏が東西に分かれたことをもって、肥前千葉氏篇を終了したいと思います。
次回よりは肥前通史②剛忠(家兼)さんの時代篇とします^-^
千葉氏嫡流の解釈が真逆になったのと過去記事の間違いなどもあり、こちらも新たに書き直しとなりますが、引き続きお付き合い頂ければ幸甚です。
何卒、宜しくお願い申し上げますm(__)m