「我に10年の齢があれば、機にのぞんで功を立てる事は掌の中にある」
という男前なセリフの前に、勝利公は龍造寺隆信の人物評を話されてます。
という男前なセリフの前に、勝利公は龍造寺隆信の人物評を話されてます。
隆信の気質は、勇謀はあっても仁徳を知らず、 一旦、大利を得て数国を保つことが出来ても、後は驕り高ぶって万事が我儘になり、 一門近臣の中でも信あるものは嫌い退け、佞人や軽薄表裏のものだけが栄えて、 ついには禍がかこいの中から起り、一家を亡ぼすことてきめんである。ボロクソです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
勇謀・・・は、判らないでもないです。
龍造寺隆信は、敵を倒すためならあらゆる手段を講じるタイプ。
謀殺とか暗殺とかって手段に対し、怯んだり躊躇しません。情実も絡めない冷静さがあります。
龍造寺隆信は、敵を倒すためならあらゆる手段を講じるタイプ。
謀殺とか暗殺とかって手段に対し、怯んだり躊躇しません。情実も絡めない冷静さがあります。
ただ一つ肝心な点は、三瀬村史のベースとなる「神代家伝記は江戸期に書かれた」という点です。
ネタバレしちゃうけど、神代家は生き残り肥前佐賀藩・鍋島家に仕えます。
しかも(藩主・鍋島家の)御親類格( ゚д゚)ンマッ!!
ネタバレしちゃうけど、神代家は生き残り肥前佐賀藩・鍋島家に仕えます。
しかも(藩主・鍋島家の)御親類格( ゚д゚)ンマッ!!
だから隆信の人物評に関しては「佐賀藩特有の大人の配慮」が多分に働いてると見た方が正解です。
つまり・・・( ̄ko ̄)<鍋島の殿より、龍造寺隆信を褒めるわけにいかないんでつ~~~
つまり・・・( ̄ko ̄)<鍋島の殿より、龍造寺隆信を褒めるわけにいかないんでつ~~~
織田信長が秀吉の妻・寧々さんを気遣う手紙を書いていたように、
龍造寺隆信にも「隆信らしさ」を感じる「慈悲」や「温情」があったはずです。
龍造寺隆信にも「隆信らしさ」を感じる「慈悲」や「温情」があったはずです。
龍造寺隆信は、初期に自分を追い出そうとしたクーデターに対し、処断したのは首謀者・土橋だけ。
利用された鑑兼も土橋の一族も家臣団の中に受け入れてます。
織田信長のように、後年になってから追い出したりなんかしてません。
利用された鑑兼も土橋の一族も家臣団の中に受け入れてます。
織田信長のように、後年になってから追い出したりなんかしてません。
隆信の人間的エピソード(善)は、江戸期に語り継ぐなかで鍋島家への遠慮から、記録から削ぎ落とされたと思います。
隆信に側室がいたかいないか不明なのが良い例です。
隆信には三人の息子がいましたが、残る二人の男子は生母が定かではありません。
嫡男の政家もウィキペディアだと生母が例の村中当主未亡人ですが、これもシオは出典の確認がとれてません。
もともと女性の記録は少ないものですが、隆信周辺は無さすぎです。
隆信に側室がいたかいないか不明なのが良い例です。
隆信には三人の息子がいましたが、残る二人の男子は生母が定かではありません。
嫡男の政家もウィキペディアだと生母が例の村中当主未亡人ですが、これもシオは出典の確認がとれてません。
もともと女性の記録は少ないものですが、隆信周辺は無さすぎです。
ガバイ母ちゃんのキャラが突出して有名すぎて、お蔭で肥前の熊はネタでマザコン認定されました,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
軍記ものだと、いきなり斜め上に大言壮語してるのしか無かったりで、キャラに関してはアテにならないんです。(-ω-;)ウーン
軍記ものだと、いきなり斜め上に大言壮語してるのしか無かったりで、キャラに関してはアテにならないんです。(-ω-;)ウーン
余談ですが、今回の和睦仲介は龍造寺家老・納富信景でした。
納富さんは1556年における「龍造寺VS神代」で、長男(北肥戦誌では義弟)を神代長良に討たれてます。
で、その時に未亡人となった息子(or義弟)の嫁が、後に鍋島直茂と恋愛結婚で再婚する石井家の彦鶴姫です^-^
納富さんは1556年における「龍造寺VS神代」で、長男(北肥戦誌では義弟)を神代長良に討たれてます。
で、その時に未亡人となった息子(or義弟)の嫁が、後に鍋島直茂と恋愛結婚で再婚する石井家の彦鶴姫です^-^
龍造寺と神代勝利公は互いに誓紙を交わし、更に和合の証として縁組が決定します。
勝利公孫娘(長良の娘)と隆信三男(後の後藤家信)が婚約。
勝利公孫娘(長良の娘)と隆信三男(後の後藤家信)が婚約。
さらに隆信は亡き龍造寺胤久の娘を自分の妹分として、勝利公に嫁がせたいと申し入れたそうです。
1539年に亡くなった胤久の娘なら、けっこう年増なんじゃ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
この場合は年齢関係なく血統です。
なんてったって亡き龍造寺胤久は村中龍造寺の17代目当主でしたから(^ -)---☆Wink
1539年に亡くなった胤久の娘なら、けっこう年増なんじゃ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
この場合は年齢関係なく血統です。
なんてったって亡き龍造寺胤久は村中龍造寺の17代目当主でしたから(^ -)---☆Wink
えっと実は勝利公は2度結婚されてまして、初婚が異母兄実家の福島氏で長良公生母(生没年不明)。
継室が山内頭領に押された時に結婚した千布さんとこの娘です。
継室が山内頭領に押された時に結婚した千布さんとこの娘です。
ただ、この継室・・・没年が天正年間・・・つまり勝利公は妻帯者。
嫁ぐとなると側室になるのは承知の上でしょうから、龍造寺側が相当気を使ってます。
(政略結婚が多い時代なので、側室でも「嫁ぐ」って表現を用いてました)
嫁ぐとなると側室になるのは承知の上でしょうから、龍造寺側が相当気を使ってます。
(政略結婚が多い時代なので、側室でも「嫁ぐ」って表現を用いてました)
勝利公、この時既に数えで52歳。
自分は老いた身ですから・・・と、いまさら妻を迎えるのを辞退しました。
ですが龍造寺側(たぶん仲介役の納富さん)から、此度の和平に他意はなく嫁ぐのも山内への人質ですから、是非!是非~~~
と、強くプッシュされたので勝利公も承諾し、龍造寺胤久娘が嫁いで和睦が成立したのでした。
(※ただし北肥戦誌には胤久娘が嫁ぐウンヌンの記載はありません)
自分は老いた身ですから・・・と、いまさら妻を迎えるのを辞退しました。
ですが龍造寺側(たぶん仲介役の納富さん)から、此度の和平に他意はなく嫁ぐのも山内への人質ですから、是非!是非~~~
と、強くプッシュされたので勝利公も承諾し、龍造寺胤久娘が嫁いで和睦が成立したのでした。
(※ただし北肥戦誌には胤久娘が嫁ぐウンヌンの記載はありません)
漸く平穏になった佐嘉と山内。それも戦国の世では長く続かなかったのだが、