長文が苦手な方は三行&大文字説明に飛んでください(^ -)---☆Wink
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明応9(1500)年1月、前年11月に近江で敗れた亡命将軍・足利義尹は再び大内義興を頼る(佐賀市史)
同年3月、亡命将軍・足利義尹は山口の神光寺に入る。
(適当な館がなかったのかな?)
同年4月、ここからが大事なところです( ̄ko ̄)
亡命将軍・足利義尹、肥前神埼郡にいる九州探題・足利尹繁らに自分への忠節を求める。
同時期、現室町将軍・足利義高が大友親治、少弐資元に足利義尹討伐を命じる。
あ~あ、二人の将軍の争いが思いっきり肥前に飛び火してる(´・д・`)
まぁ、討伐って言っても亡命将軍の方は、西国のドン・大内義興の本拠地山口で保護されてるからして。
現実問題、討伐なんて無理なんだけど~~~でも戦の大義名分にはなるよね(・∀・)
とはいえ肥前は戦どころじゃなかったみたい。
北肥戦誌によると、この1500年3月~5月の間に降雨が一切なかったそうなんです。
稲や作物への恵みの雨が~~~~(;´・ω・)
同じく北肥戦誌より、同年8月2日、大風おびただしく、大水が山林を洗うとあります。
要するに台風で大規模な浸水被害があったってことなんでしょう。
日照りに大浸水・・・この年の収穫は絶望的だったに違いない(´;ω;`)ウッ
明けて明応10(1501)年、2月29日に文亀へと改元。
文亀元年4月20日、肥前に栗くらいの大きさの雹(ひょう)が降る(by北肥戦誌)
また田畑が・・・・il||li _| ̄|○ il||l
もう栗くらいの大きさったら「降る」っていうより「落ちる」ですな( ゚Д゚)y─┛~~
同年閏6月23日、大友親治の嫡男で当主の義親が豊後・筑後・豊前守護となる。
同年閏6月24日、大友義親は現将軍・足利義高より偏諱を受けて大友義長となる。
同日、大友親治(実権持ちの隠居)、少弐資元が、大内の豊前・馬岳城を攻める!
歴代鎮西志によると大内家臣で馬岳城主・杉兵庫助弘隆が討ち死にしたとある。
柳川市史によると大友親子は、筑後へも兵を進めていたそうで、
足利義高の「(亡命将軍を擁立しようとする)大内を討て!!!(# ゚Д゚)・;'.」の大義名分のもと、活発に軍事行動を始める。
だが豊前での大内の力は衰えたわけではなかった。
同年9月13日、周防の深野興信に豊前と筑前の土地を安堵している(大内氏実録土代)
では、ここまでを三行で説明(`・ω・´)キリッ
・亡命将軍・足利義尹と現将軍・足利義高の対立が激化
・足利義尹は大内に、足利義高は大友に忠節を求めたので大内VS大友の対立も激化
・自然災害に苦しむ肥前は、両者の争いに巻き込まれようとしていた。
この動きの中で衰微していた少弐と西千葉が復活するのだが、それは・またの話 by^-^sio