長文が苦手な方は三行&大文字説明に飛んでください(^ -)---☆Wink
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明応7年2月、西千葉氏with龍造寺胤家が敗れて筑前に亡命した年の8月のこと。
あきらめない少弐は、未だ少年の少弐資元を擁立して綾部(肥前神埼郡)の渋川刀禰丸(大内サイド)を攻めたのだが、
大内が渋川へ救援を送ったので撤退した。
同年9月吉日、筑紫満門が河上神社へ河上宮の造営・遷宮の願文を出しています(河上神社文書176)
少弐一門でありながら、大内に降伏し幕下となった筑紫氏。
川上(河上)社へ造営・遷宮に関する願文を出すほど力を付けていたのが判ります。
あ、そういえば筑紫家は江戸期は幕臣で残るから、少弐一門の一つとして生き残った勝ち組になるんだよな^^
ちなみに、この年は平戸の松浦氏が松浦宗家を破った年です(松浦家世伝)
明応8(1499)年、戦国ミレニアムのせいだからか北肥戦誌によると、この年から飢饉が続き餓死者が多数出たそうです。
同年、渋川刀禰丸が大内義興の働きかけで元服、拝謁した足利義尹から偏諱を受けて尹繁となり、九州探題の任命された。
ちなみに歴代鎮西志では明応9年8月12日の事になってます。
で、亡命将軍・足利義尹は大内義興の庇護を受けてたのだが、もう大丈夫だろうと戻って近江で敗れた(11月)^^;
結局、亡命将軍・足利義尹は再度亡命して大内を頼ることになる。
では、ここまでの情勢でを三行で説明(`・ω・´)キリッ
・大友は現将軍・足利義高に従う
・大内は亡命将軍・足利義尹をバックアップ。
・結果、大友と大内が対立する
ここから派生した現象を三行で説明(`・ω・´)キリッ
・少弐&西千葉は大友のバックアップを受ける
・九州探題・渋川&東千葉は大内のバックアップを受ける。
結果、少弐&西千葉VS九州探題・渋川&東千葉になる
大物の対立も派生した対立も連合軍になる場合もあれば、個々で戦ってる場合もありで、明確が決着がつかない状態がグダグダ続く事になる。
この明応8(1499)年に、龍造寺家兼が父から相続された水ケ江館を城に改築する
家兼がリフォームした水ヶ江城はクリークを利用しており、5つあった館(曲輪)は それぞれ独立していた。
その為、5館全部を合わせた広さは30町(約3.3km)という広大さ( ゚д゚)ンマッ!!
水ケ江龍造寺が龍造寺分家として頭角を現すのは、この時になるのではないでしょうか。
少弐の被官(家臣)でもあり、東千葉(嫡流)の被官でもある龍造寺。
両者の争いの中で生き残るべく、龍造寺は難しい舵取りを要求されるのだが、それは・またの話 by^-^sio