長文が苦手な方は三行まとめに飛んでください(^ -)---☆Wink
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龍造寺康家(家兼ら兄弟の父)が別館(水ケ江御茶屋)を造り、この地に隠居する「by佐賀市史」
既に水ケ江城を父から相続していた家兼が、本当の意味で分家となったのは この時かもしれない。
同年3月、龍造寺家兼は天亨長老を導師(どうし=中心者)として法華経一万部を読誦(どくじゅ)する「by北肥戦誌」
読誦(どくじゅ)とは仏教用語で、要するに中心者(導師)のリズムに合わせて一緒に経文を唱えるんです。
一万部・・・クラクラ~~(@@)何時間かかったんだろう~~
康家が隠居したのは、自分が当主として表に出なくとも大丈夫だろう。
そう判断できるほど、肥前が平穏というか一段落して落ち着いた状態だったのだと推察します。
が、静かなのは僅かな期間でした。
永正3(1506)、少弐資元勢が大内義興勢と筑前・勝野山において争い少弐が敗れた!
この時点で嫌な予感がした貴方。いい勘してます。
敗れた少弐は大宰府に逃れ、更に肥前へと逃げた(by宗像軍記)
どうも少弐資元も肥前に入ったらしい。
同年8月7日、少弐一門である横岳氏(←肥前が領地)が少弐資元から「資」の偏諱を受けて「横岳資誠」と名乗ります。「by横岳家文書」
一方、少弐が後ろ盾の西千葉はパッとしない。
同年10月17日、大内サイドの筑紫満門と東尚盛が西千葉・胤繁がいる高田城を攻撃。
翌日に城はアッサリ落ちて、西千葉胤繁は密かに脱出した。
でもって少弐も肥前に入ったが、4年前に筑後へと追い出されてた九州探題職・渋川尹繁も肥前に復活してたらしい。
同年閏11月3日、渋川尹繁が三根郡光浄寺に禁制を授ける「by佐賀市史」
ここまでを三行まとめ(`・ω・´)キリッ
・家兼パパンが隠居した。
・少弐が大内に敗れて(また)肥前に入った。
・地味な九州探題職・渋川尹繁(バックは大内)が、筑後から肥前へ復活(=^・ω・^=)v ブイ
あぁ、また肥前で揉めるのね~~~(T^T)
と思ったら、火種は筑後で発火したのだが、それは・またの話 by^-^sio