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【足利将軍を奉じての上洛】
これは信長でもなければ、戦国ゲームの話でもなく史実あった話。
ただし、永正5(1508)年だけどね(^ -)---☆Wink
大内義興が上洛の決意をしたのは、前年に中央政界が大きく変化する出来事があったからです。
それは永正4(1507)年6月23日、半将軍と呼ばれた細川政元が暗殺されたことです。
ちなみに大内義隆は、同じ永正4年11月15日産まれです^-^
それで亡き細川政元に京都をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!された、10代目将軍・足利義尹が西国のドン・大内義興の力を借りて帰洛を決意。
永正5(1508)1月、足利義尹は大内の力を借りて帰洛しようとした。
(※それまで大内を頼って山口に亡命していた)
情報をキャッチした(大内が号令かけた)九州の国人が我も我もと供を申し出る。
上洛参加メンバー一覧(出典元:北肥戦誌)
筑前~秋月種貞・原田興種・麻生元重・高橋親種・立花親載・宗像氏重、
筑後~星野親実・草野親永・蒲池治久・田尻種久、
肥前~渋川尹繁・少弐資元(名代・横岳資誠)・千葉介興常・龍造寺家和・龍造寺家兼、
唐津~波多治・草野永信、平戸~松浦興信、高木~有馬尚監、彼杵~大村純治、
肥後~菊池義国・相良義滋、
薩摩~島津忠昌(名代は子の勝久)、
日向~伊東祐秀
豊後~大友一族、
豊前~城井長門、
対馬~宗義盛
※歴代鎮西志だと龍造寺は家和・家兼の他に胤家もメンバーに入ってます。
一方、京都にいる現将軍・足利義澄も何もしてなかったわけじゃなく
同年2月、足利義澄、大友義長と少弐資元ら鎮西の武将へ大内追撃を命じる。
が、既に勢力が衰えていた足利義澄の命令に答える九州の武将はいなかった。
かつて義澄を押していた大友でさえ、一族を大内勢に同行させた。
敵も味方も過去の遺恨もどこへやら~
手に手を取って「イザ!京都へ((((((((((っ´▽`)っヒャッハ~」
同年4月16日、足利義澄が没落し近江国に亡命「by歴代鎮西志」
なんだかんだと準備に手間取り、足利義尹が出発したのは同年の5月下旬。
6月8日に京都へ到着した。「by佐賀市史」
同年7月8日、足利義尹(10代目)は、足利義稙と改名し室町将軍として再登板する「by佐賀市史」
大内義興の活躍は凄かったらしいのだが、九州から離れちゃうのでシオの守備範囲外~
てか同行してた九州の国人らが、いつまで大内義興に従って行動してたかのほうが知りたい^^;
北肥戦誌によると、この年の筑前の年貢は大内と少弐の半納だったそうだ。
上洛という一大事業を前に少弐と大内も一時的に和解状態になったのかもしれない。
だが、それは一時的なもので、大内義興は再び少弐追撃を再開するのだが、それは・またの話 by^-^sio
ここまで三行まとめ(`・ω・´)キリッ
大内義興が足利義尹を奉じて上洛
大内に従軍し九州の諸将(龍造寺含む)も上洛
足利義澄は没落し、足利義尹が将軍に復活する