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大内義興が上洛した年(永正5/1508)従軍し上洛した龍造寺一門は、北肥戦誌では家和(当主)家兼(分家・水ケ江)の二人。
歴代鎮西志では、この二名の他に嫡男の座を捨てた胤家が入っている。
この年の月日は不明だが、元・嫡男、龍造寺胤家は与賀城に入った。「by佐賀市史543頁」
与賀城は少弐の城だったが、少弐は佐賀郡から神埼郡に拠点を移したので、与賀城は城主不在になっていたのだろう。
少弐は一度没落しているから、城番を置く余裕もなかったに違いない。
元々少弐のものだった城に入るにあたり、少弐に何と申し立てたのか、はたまた少弐をスルーしたのか不明です。
とにかく!
この龍造寺胤家が与賀城に入るを持って、龍造寺は三家となった。
総領家・村中龍造寺、分家・水ケ江龍造寺、同じく分家・与賀龍造寺です。
この時から龍造寺は三家が力を合わせて、戦乱の時代を生きることとなるのです。
永正6(1509)年8月、再び大内義興勢が豊前・筑前で少弐資元の党を討つ「by佐賀市史」
前年で大内の上洛に従軍し、筑前の年貢を互いに半納した少弐と大内だったが、やはり一時的な和睦で大内は少弐討伐を諦めたわけではなかったのだろう。
一方、少弐の衰微とともに少弐の一門同然の西千葉氏の旗色が悪くなってきた。
永正7(1507)年3月13日、西千葉の胤治が東千葉の興常・喜胤親子、東尚盛らに攻撃され高田城で討ち死にする
「by千葉氏略年表・日付は歴代鎮西志より」
同年3月21日、家和、家兼、胤家の父・龍造寺康家が没する「by佐賀市史、歴代鎮西志」
父の死によって次男・家和が名実共に当主となる。
もしかしたら、長男・胤家が与賀城に入ったのは父・康家の意向だったのかな~
年表の順番に従っているので、話が途切れ途切れになっているのはご了承願いますm(__)m
もともと東千葉が嫡流な上に上洛するほど勢威がある大内の後ろ盾があるのだ。
東千葉は栄え、西千葉は衰退していくのだが、それは・またの話 by^-^sio
ここまで三行まとめ(`・ω・´)キリッ
父・龍造寺康家が死去。家和は名実共に当主となる。
龍造寺が、村中(総領家)龍造寺、水ケ江龍造寺、与賀龍造寺の三家となる。
少弐がパッとしないので、少弐のバックアップ受けてた西千葉が衰微する。