本日は物語風に^^
出典は北肥戦誌です^-^
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少弐氏を支えた忠臣の二大柱が、馬場氏と横岳氏だろう(どっちも一門)。
そして少弐氏再興に最も情熱を注いだのが馬場頼周(ばば よりちか)です。
少弐のためなら手段を問わない。
少弐を裏切る者は許さない。
たとえ、それが縁戚であっても・・・です。
この一途さは、肥後阿蘇氏の忠臣・甲斐宗運を彷彿とさせる(宗運の方が苛烈だけど^^;)
ただ少弐氏が、滅亡寸前(当主と嫡男が自害)になった時に、一門でありながら少弐氏を裏切った者がいる。
それが東尚盛と筑紫満門。
そのうち、筑紫満門が馬場頼周の岳父(妻の父=舅)だった。
馬場は舅の裏切りにブチ切れそうなのを堪え、
時折「以前みたいに少弐サイドに戻って(-人-)☆彡オネガイ」と説得の使者を出していた。
歴代鎮西志によると少弐と筑紫は和睦したとあるのだが、馬場の行動を見るに筑紫を信用していなかったのだろう。
馬場は、筑紫を誅殺すべく呼び出そうするが、婿の気性を知ってる満門は馬場の呼びかけに応じない。
そんなこんなが続いて1524年(大永4)1月中旬。
馬場の子(=筑紫の孫)が疱瘡を患った。
馬場は妻女(=筑紫の娘)に向って云う。
「おことが父である満門は、我らに異心あるものと疑い、ずっと訪ねてこない。
我らには些かも別心などない。
いま子供が疱瘡で痛がっているのを、おことより知らせて父を招き、孫らを見舞う様に誘ってくれぬか」
馬場の妻は、夫が血を分けた我が子の病を謀略の種に利用しようとしているなど夢にも思わない。
急ぎ文を認めると父へと送った。
筑紫は1月18日に、息子二人と家臣らを召して馬場の綾部城へ赴いた。
(黒い馬場頼周:監修様作画)
孫の寝所を筑紫が見舞うと、後ろめたい気持ちがあったのか馬場が挙動不審,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
その様子を見て夫の謀略に気付いた馬場の妻だが、この期に至ってはどうにもならず、ハラハラと涙を零した。
筑紫は孫の容体に気を取られ、色々不自然な娘夫婦の様子に気づかなかった。
実は筑紫満門は陰形の術「木の葉隠れの妙法」を会得してたそうな。
(マジかよ・・・でも北肥戦誌に書いてるんだもん(´・д・`))
そのため馬場は筑紫を討ち漏らす事がないようにキッチリ合図を決めてた。
そして広間に座ってた筑紫と息子たちに襲い掛かり討ち取ったのだが、それは・またの話 by^-^sio