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詳細出典史料「」内は自分で確認、( )内は参照文献より引用
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馬場が少弐を見限った筑紫満門を謀殺してスッキリした大永4(1524)
馬場から見て裏切りしてるのが未だいた。
同年3月28日、龍造寺胤久(17代目)が千葉興常より佐賀郡と小城郡の領地安堵を受ける「龍造寺文書105」
千葉興常は少弐のライバル・大内のバックアップを受けている東の千葉氏。
ちなみに嫡流は東。
少弐の一門・横岳から胤勝が養子に入っているのが西の千葉氏。
龍造寺は四年前までは西千葉と繋がりを濃くしていたのだが、この頃から東千葉との関係を強化しはじめたらしい。
四年間の間に何があったのかは記録がないので不明。
馬場から見れば、龍造寺が西千葉から離れて東千葉寄りになるのは十分裏切り圏内だと思うのだが、
馬場はそれどころでなくなった。
同年夏ごろ、西の千葉胤勝が大内へ寝返ったと噂が出たのだ。( ゚д゚)ンマッ!!
え~と、ここで季節の話になるんだが、
昔の北海道を含まない日本の旧暦季節感では4月くらいが既に初夏なんです。
これは中国の暦を日本にそのままあてはめた為に実際の季節感とはズレが生じてます。
そのために江戸期に渋川春海により暦は作り直されています。
噂を聞いた馬場頼周は、これを諌めようと胤勝の老臣3人へ送り状を出した。
だが、大永4年(1524)の夏に「胤勝は頼周の諌めを聞かず大内に通じた」と聞こえた。
諌めたのが逆効果だったんじゃ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
馬場頼周は佐嘉の龍造寺・蓮池の小田と共に4月に小城へ出陣し晴気城を攻撃。
5月12日に城は落城、千葉胤勝は密かに落ち延び筑前で浪人したそうな( ̄ω ̄A;アセアセ
ここで龍造寺はシッカリ少弐のために動いてる。
うまくやってるな~
大永5(1525)年、千葉興常は光勝寺に小城郡内の土地を寄進「佐賀市史」
寺社への寄進・安堵は安定した実力の証。
龍造寺が東千葉寄りになるのも納得というもの。
同年、千葉喜胤(興常の嫡男)横辺田で有馬に敗れ、大内の助けで小城に帰る「千葉氏略系図」
東へと勢力を伸ばそうとする有馬の動きは断続的にありました。
領地を守るためにも東千葉には大内の力が必要だったんです。
歴代鎮西志によると、この横辺田の戦いで須古の平井氏が有馬へと属します。
須古・平井氏。
もともとは千葉家臣だったのが有馬に属したことで、後に龍造寺を悩ませるのだが、それは・またの話 by^-^sio
ここまで三行まとめ(`・ω・´)キリッ
龍造寺は東千葉とも少弐とも、いい感じの距離感で上手くやってた。
西千葉が寝返ったと噂が出て、馬場が西千葉を追い出すo( ̄Д ̄θ★ケリッ!
須古の平井が千葉から有馬に寝返る