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詳細出典史料「」内は自分で確認、( )内は参照文献より引用
基本ベースは北肥戦誌(九州治乱記)です^-^
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大永5(1525)年、大友義鑑が田北親員を大将にして討伐軍を筑後に入れた。
筑後の国人衆が謀反を起こしたんです。
この争いの中で星野氏は一族が敵味方に分かれた。
大友サイドの星野親忠は黒木氏、上妻氏らと先陣を賜った。
激戦の結果、草野・溝口・川崎氏らは降伏し、謀反側の星野正実は豊前に逃れて大内義興を頼った。
大友氏では断続的に筑後・・・特に星野氏の謀反に手こずっていたようだ。
1518年に亡くなった大友義長は「警戒すべき一族」として、星野氏、阿蘇氏、相良氏、大友分家の田原氏を挙げている。
特に星野に関して義長は遺言で「星野九郎(重泰)の兄弟子孫は絶対許してはならぬ」と書いたそうだ。
九郎の兄弟子孫とは大内義興を頼った星野正実のことかもしれない。
とはいえ実は七回葬儀伝説の星野伯耆守重泰は、系図上では実在しない人物なんです。
ひょっとして星野伯耆守重泰は、大友に反旗を翻した複数の星野一族が一人の人物として伝わったのでは?などと妄想炸裂してます(*´pq`)クスッ
さて史実の星野正実を迎え入れた大内義興は、その後、豊前田川郡位登(糸)庄を正実に与えた。
位登(糸)庄はもともと星野氏の領地であったところで、義興はゆかりの地を正実に与えたらしい。
こうして星野氏は筑後と豊前に分裂し、豊前田川郡の星野氏は「糸の星野氏」と呼ばれ、生葉郡の星野氏は「筑後の星野氏」と呼ばれた。
豊前「糸の星野氏」は大内から毛利配下となり、九州の役を生き残り小早川隆景配下となった。
だが御存知の通り、小早川家は関ヶ原の後で。。。ショボーン..._φ(・ω・` )
それとも隆景亡きあとで毛利家臣になったものか、シオペディアでは辿れませんでしたil||li _| ̄|○ il||l
不安定な筑後の中で大友に積極的に近づいたのが田尻氏だった。
大友から偏諱を受け、領地の安堵を受け、家督相続では大友の許可をもらう。
それは同時に大友の筑後における支配体制が固まる時期と並行する。
享禄元年(1528)15代目当主・竜造寺家和が死亡。
少弐氏がリベンジのために再び動き出そうとする中で死んだ家和は さぞ心残りだっただろう。
大内家も義興が死に義隆が22歳で当主となるのだが、それは・またの話 by^-^sio
ここまで三行まとめ(`・ω・´)キリッ
筑後星野氏が分裂し、負けた方の星野氏は大内を頼った。
筑後田尻氏は積極的に大友配下としての地盤を固める。
龍造寺家和が死亡、大内も代替わりする。