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詳細出典史料「」内は自分で確認、( )内は参照文献より引用
基本ベースは北肥戦誌(九州治乱記)です^-^
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鍋島さまが颯爽登場する「田手畷の戦い」の発端は、例によって少弐のリベンジだった。
この戦いは鍋島さまの、いわば社交界?デヴューみたいなもので、龍造寺はもちろん石井家(直茂正室の実家)とも繋がる重要な分岐点。
そのせいか、そもそもの発端である少弐のことは、忘れられがち^^;
骨子が端折られるているか、書いてあっても少弐の事は読む人の脳内に残ってない,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
てことで、シオがまた~り語りたいと思います(*´pq`)クスッ
少弐資元は永正14(1517)年に太宰少弐に任官したものの、大内のために本貫地である大宰府に戻ることは叶わず、藤津の山中に蟄居していた。
資元に従うのは宗一族庶流、氏茂のみ。
大永8(1528)年夏になると少弐は室町幕府管領・細川高国を頼み、嫡男の松法師丸を元服させ興信(のちの冬尚)と名乗らせた。
更に「太宰少弐」として「屋形」号を与え勢福寺城へ入れると、馬場と江上を息子の後見とした。
「北肥戦誌192頁」
屋形号は国主に許される尊称で、自称することは出来ず幕府の承認がいる。
大内の手前、決まった国の守護職には出来ないが、それに準ずるということなのだろう。
閏9月9日には、松法師丸は横岳資誠に三根郡代職を安堵してます。
「横岳家文書9」(但し元服した名乗りではなく、松法師丸の名で出してます。理由は不明)
以前に書いたように昔の季節感は実際の季節感とはズレてます。(中国のを参考にしたから)
で、この年に細川高国は失脚し近江に亡命しちゃうので(北肥戦誌では夏とあるけど)少弐の(-人-)☆彡オネガイはギリギリセーフな時期・・・年頭~春にかけての事になる。
息子の後事を馬場らに託した少弐資元は、上松浦へ兵を進めた。
獅子・日割の両城他、松浦党を従えると、本貫地である大宰府を取り戻すべく、西筑前へと出陣。
事態を知った大内義興 Σ(´Д`;) 、直ちに少弐退治を将軍・足利義晴に願い出るが、此度は許可が下りなかった。
(歴代鎮西要略によると6月のことらしい)
中央政界が混乱してたのもあると思うが、将軍・義晴が大内義興に良い印象が無かったのかもしれない。
足利義晴(12代目)は、大内義興が上洛した時に奉じた足利義尹を将軍に復職(10代目)させるために、
o( ̄Д ̄θ★ケリッ!っと追い出された足利義澄(11代目)の子だったからです。
だから大内義興の(-人-)☆彡オネガイに、すぐOKしないで意地悪したかも^^b
(大内の力は大きいので本気で敵対する気は無いと思う)
ちなみに足利義晴は、剣豪将軍・義輝と最期の将軍・義昭のパパンです^-^
同年の8月28日に大永から享禄へ改元
同年12月20日、大内義興が54歳で卒去
22歳の大内義隆が家督を継ぎ、7か国(周防・長門・石見・豊前・筑後・備後・安芸)守護となる(=^・ω・^=)v ブイ
後年の姿からは想像出来ないほど英気溌剌だった、若き大内義隆。
彼は当主になると早速に「少弐退治」を将軍に願い出て、許可を頻りに催促する。
1年間・催促し続け、ついに享禄3(1530)年春に将軍家から許可キタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★
鍋島勢・赤熊武者デヴューの「田手畷の戦い」が始まろうとしていたのだが、それは・またの話 by^-^sio
ここまで三行まとめ(`・ω・´)キリッ
・少弐資元が嫡男・松法師丸を元服させると、「太宰少弐」として「屋形」号を与え勢福寺城へ入れる
・12月20日、大内義興が54歳で卒去
・大内義隆に少弐退治の許可が下りる