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詳細出典史料「」内は自分で確認、( )内は参照文献より引用
基本ベースは北肥戦誌(九州治乱記)です^-^
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すぐに田手畷に入りたいのは山々なんですが、大内義隆の少弐退治の許可が足利将軍家からすぐ降りなくって、1年待たされちゃった(´・д・`)
でもって大内が待ちの一年だった享禄2(1529)年2月15日、竜造寺隆信が誕生する(=^・ω・^=)v ブイ「佐賀市史」
そして享禄元年に父・資元から太宰少弐を譲られたはずの少弐冬尚が、なぜか龍造寺隆信と同い年生まれ(爆
ウィキペディアの間違い・・・というより、冬尚の年齢には異説がありハッキリしてないんです。
滅びる寸前なんで記録が適当に・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
あと地味に直茂の兄・鍋島信房も生まれてます^^/
大友宗麟は龍造寺隆信より一つ年下、享禄3(1530)年生まれ。
そんな享禄3(1530年)の春に、やっと「少弐退治OK」が幕府から大内義隆の元へ届く。
4月下旬、さっそく大内義隆は筑前守護代・杉興連(スギオキカズ)に命じ、東の基肄郡、養父郡、三根郡へ討ち入る。
少弐サイドだった筑紫尚門・朝日頼貫・横岳資貞を始め東肥前の者達は悉く城を開いて大内に降伏した。
筑紫尚門は、馬場頼周ダークサイドに謀殺された筑紫満門の子(弟?)です。
横岳資貞は少弐一門で、西千葉家当主・胤勝は彼の実子です。
二人は親子で大内サイドにつきました。
ほら、西千葉の胤勝さんは、馬場頼周が裏切者o( ̄Д ̄θ★ケリッ!って追い出しちゃったから。
当時の噂の真偽は別にして、馬場が追い出したもんだから結果的に西千葉は大内サイドに走ったんです。
で、その大内に走った西千葉の胤勝から龍造寺胤久(村中宗家当主)が領地安堵を受けているんです。
享禄3(1530)年7月15日、龍造寺胤久、千葉胤勝より与賀庄千町六郷を安堵
「龍造寺家文書106」
大内勢が東肥前に討ち入った後だから、村中宗家は間接的に大内配下になったのではないでしょうか。
龍造寺家兼が少弐に裏切りを疑われたのは、村中宗家の複雑な動きが誤解を招いたのかもしれません。
東肥前の者たちが大内サイドに走ったのを知った少弐資元。
彼は「ならば討ち出て戦うべき」と軍兵を集め、
龍造寺家兼・蓮池政光・直鳥家清、他に馬場頼周・江上元種・宗秀恒・出雲頼通・姉川惟安・本告頼景・執行兼貞らと佐嘉郡・神埼郡の軍兵が参陣した。
馳せ参じた龍造寺家兼の手勢の中に鍋島勢がいたのだが、それは・またの話 by^-^sio
ここまで三行まとめ(`・ω・´)キリッ
・4月下旬、大内勢が討ち入ると東肥前の諸将が大内に寝返る
・7月15日、大内に寝返った西千葉から村中宗家が領地安堵を受ける
・少弐資元も大内に対抗すべく軍勢を集め、龍造寺家兼も動員された