現在の長崎市を本貫地とする国人がいました。
その名も、まんまで長崎氏。
その名も、まんまで長崎氏。
本姓は桓武平氏・・・となっているんですが、詳しい事は曖昧で判りません。
記録としてハッキリ出ているのが鎌倉時代の「福田文書」
そこから長崎氏は、地元民ではなく在地領主。鎌倉御家人で長崎の地頭職と推測されてます。
記録としてハッキリ出ているのが鎌倉時代の「福田文書」
そこから長崎氏は、地元民ではなく在地領主。鎌倉御家人で長崎の地頭職と推測されてます。
本城は桜馬場城で現在の桜馬場中学校(長崎市桜馬場2丁目2−1)にありました。
平時は桜馬場が居城で、城の裏山に詰城があり、こちらは鶴城と呼ばれていたそうです。
平時は桜馬場が居城で、城の裏山に詰城があり、こちらは鶴城と呼ばれていたそうです。
城の遺構は・・・雰囲気が残ってる程度ではないかと・・・
というのも、この辺りはシーボルト関連・グラバー邸関連がある所だから^^;
もともと現代の長崎市自体も戦国当時は殆どが海だったらしく、江戸時代かなり変わってるのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
というのも、この辺りはシーボルト関連・グラバー邸関連がある所だから^^;
もともと現代の長崎市自体も戦国当時は殆どが海だったらしく、江戸時代かなり変わってるのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
細かい経緯は不明だが、長崎氏は有馬貴純の息子・康純を養子とし家督を継がせた。
西肥前最大の版図を築きつつある有馬氏と縁戚関係になり、長崎氏の前途は洋々かに見えた。
それが色々揉めそうな気配が漂うのは、有馬から入った養子の孫にあたる純景の代だ。
西肥前最大の版図を築きつつある有馬氏と縁戚関係になり、長崎氏の前途は洋々かに見えた。
それが色々揉めそうな気配が漂うのは、有馬から入った養子の孫にあたる純景の代だ。
1562年、大村純前が受洗すると、長崎純景も受洗しキリシタンとなった
長崎純景の信仰心が、どの程度だったのか正直なところ判断つきかねる(-ω-;)ウーンというのも、この年に大村純前がポルトガル船との交易を始めてるからです^^;
ポルトガルは交易の条件が受洗とSETなのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
大村純前はガチ(・∀・)
改めまして~1562年、大村純前が横瀬浦(西海市)をポルトガル貿易港として開港
ちなみに「浦」って入り江のことね^^b昨年の2012年は開港450周年~何か西海(さいかい)市では記念イベントやってたらしいですよ( ̄ko ̄)
貿易港として横瀬浦は非常に繁栄したらしい。
だが、それを快く思わない者たちがいた。
大村純前を、海よりも深く山よりも高く、、この世の誰よりも憎悪した人物・・それが武雄の後藤貴明でした
細かい事情は別記事で紹介しますが、後藤に大村家臣で非キリシタンの仏教徒が内通。1563年、横瀬浦は武雄・後藤勢の攻撃により、開港僅か一年で焼け落ち全てが灰塵に帰した
2013年は焼野原450周年・・・・(._+ )☆\(-.-メ)ヒカエナサイネそこで横瀬浦に代わって・・・(途中省略)・・・で、長崎が新たな貿易港として選ばれた。
そのための町割りが始まり、建設の槌音は活況な事、この上ない^-^
ところが再開したポルトガル交易の旨味を、地元・長崎氏は全く賞味することが出来なかったのだが、
そのための町割りが始まり、建設の槌音は活況な事、この上ない^-^
ところが再開したポルトガル交易の旨味を、地元・長崎氏は全く賞味することが出来なかったのだが、