管理人が相良家文書に拘ってたのは実は真面目な理由がありまして・・・・
相良家の記録は元亀元(1570)年あたりから急に減るんです^^;
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頼みの綱の八代日記は永禄9(1566)年までしかないし、他も記述が少ないので相良家文書に何かないかと頑張ったのですが、いかんせん思ったより意訳に時間がかかってしまい、いつまでも本編が再開できないというジレンマで自分が挫折。
開き直って相良家文書は保留!今のストックで進めたいと思います(=^・ω・^=)v ブイ
多分、相良家文書の読み下しを再開したら(マニア的に)壮大な後出しが出そうな予感はしてるんですが、その時に言い訳することにします,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
読んで下さる皆様が御記憶してるか不安なのだが、相良義陽には同年・同月・同日生まれの弟(庶子)がいる。
何やら往年の大映ドラマに出そうな設定だが史実,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
でもってダディ晴広の配慮で、後々の家督争いを避けるために庶弟は幼少時に出家した。
ところが庶弟は還俗し、頼貞と名乗って八代に入っていたんです。
記録が少ないのですが、推定で20歳ころに還俗してたらしく、義陽・頼貞ブラザーズが「はたちの頃」というと、
相良家が島津を裏切り伊東と組んだころで、日向・北原氏の今城が落城した前後。
そう・・・管理人は大河平隆次クンに夢中になりすぎて、主役の弟の人生の岐路をスーーーーッカリ忘れてたんです~~(/▽*\)
このあたりで伏線張らないと、後々アレなんでo( ̄ー ̄θ★足跡つけときます(爆
義陽の弟・頼貞が再び記録に出るのは、義陽の死後になる。
ロンさま作成 相良家紋ロゴ
元亀?永禄13?年?月?日~相良義陽に3女・千代菊が生まれる。
また女の子 il||li _| ̄|○ il||l
3女は生母で正室の千代菊と同じ名前が付けられました。
現代の戸籍では親と同姓同名って、出来るのかしら?,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
まぁ昔は身分の高い人に対し、直に名前で呼ぶことって無いから同じでも不便はない~
後世の私達が資料見る時に困るけどね(トホホ)~諱ループはマジ涙目
とにかく、正室との間に3連続で姫様しか生まれなかったので、已む無く義陽は側室を迎えることになる。
マニアックなとこで島津家臣の頴娃久虎(えい ひさとら)が兄の死に伴い12歳で家督を継いだ。
久虎ニャンは猛将・島津義弘から「豊肥戦はすべて久虎によった」とまで言わしめた勇将に成長する。
元亀2(1571)年6月14日~毛利元就75歳没
同年6月23日~島津貴久58歳没
二人の大物の死は、そのぞれの家に大きな影と落とすことになる。
さてマニアック度だと久虎よりは知名度があるかな~って言うとこで。
同年?月?日~名和行直(宇土名和氏5代目)が死亡~
豊福城の帰属を巡って長年争っていた名和氏の当主だが、実は元々は豊福城主。
若年の当主が病死すると反対派の家老を押しのけ家督をゲット、豊福城から宇土城に入ったのだが、
自分が出た後の永禄8(1565)年に豊福城を相良家に奪われちゃった(あれ?豊福にいた方が良かったんじゃ・・・ゴニョゴニョ)
家督を継いだ息子・顕孝は、島津の侵攻や九州の役などの難しい舵取りを担うことになる。
同年6月12日~豊州島津家5代目・島津忠親が60歳で死亡
以前も紹介したが重複を恐れず言うと、島津忠親は元々は同じ島津分家である北郷家の当主でした。
伊東の魔の手?から飫肥城を守るために北郷当主の座を実息子の方に継がせて、自分は豊州家当主(=飫肥城主)となったんです。
でもって忠親の姪が、島津義弘の一番目の妻でして、島津義弘は短い間でしたが島津忠親の婿養子でした^^
いろいろ(三氏相互支援)あって養子縁組解消、飫肥城も伊東家に奪われた。
名実ともに隠居した忠親さんは故地である都城に戻り、そこで亡くなったんです。
胃に穴が開きそうな心労が多々あったことでしょう・・・お疲れ様でした・・・合掌( ̄人 ̄)☆彡~~
それにしても6月に死亡が偏ってるなぁ( ̄ー ̄A 汗フキフキ
?月?日~天草氏がキリシタンの洗礼を受けてます
2月?日~相良と全く関係ないが、年代の比較として伊達家の梵天丸ちゃんが疱瘡に罹ります
4月26日~島津亀寿(16代目義久の末娘で、18代目当主の正室)が生まれる
?月?日~相良家の縁戚になる高橋元種(秋月種実次男)が生まれる
世代交代、次世代の若者たちが或いは生まれ、或いは成長していく中で、
相良家でも遂に待望の嫡男が産まれるのだが それは またの話。