天正3(1575)年5月21日~長篠の戦いで織田信長が武田勝頼を破る。
このちょい前の4月に島津4兄弟末弟・家久が上洛してて「信長を見た」そうです^^
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天正3(1575)年~前(さき)の関白・近衛前久(このえ さきひさ)が織田信長の依頼で九州へ下向。
九州各地の争いを止めさせ和睦させ、毛利攻めに協力させよう!
というのが目的でして相手の都合スルーなとこが、いかにも戦国^^
これは相良家にとってビッグイベント~~
元とはいえ関白・摂関家の使者じゃなくて本人が来るなんて~
初めてだぉ~アタヘ( ̄△ ̄:)ノミヽ(: ̄▽ ̄)ノフタ~仕度・仕度~~
義陽と近衛前久との会談ですが、前久が薩摩へ下向する途中、白木妙見社へ立ち寄った為に実現しました。
感動した義陽は前久に臣下の礼を取った。m(_ _)m
その際、前久の先祖が、義陽の先祖である武智麻呂の弟であると知ると、前久の方が畳一枚分下座に降りたとの事。
さらに福善寺で義陽が前久を招待し、前久が「庭の面(も)に池の玉水ながむれば類なかりし萩の下露」と読むと、
義陽は「水の上に立つ朝霧は曇りても磨け鏡の池の秋風」と返歌したというのが「求麻外史」に伝えられている。
これまで官位目当ての連中ばかり見てきた前久にとり、義陽の朝廷に対する崇敬の純粋さに感動した。
(こんな風に本心から敬ってもらって気持ちいい~~~*人 ̄▽)♪)
前久は義陽を余程気に入ったらしく、近衛家の家紋入り装束の使用を許可している。
更に相良への好意として、島津義久に迫って一時停戦を受け入れさせたほどであった。
もっとも、この和睦には義陽の方が返事を渋っており、義久が前久の要請に従い、起請文を提出した事でようやく実現している。
島津は島津で義久が伊東との和睦を渋ったものの、前久の顔を立てる為にと、相良との和睦にすり替えたようだ。
細かい交渉に前久が奔走したかは不明でして、身分から言って家臣の伊勢貞知が代わりをやったんじゃなかな?
前久自身は鹿児島に居室を造営されて、そこに逗留していたそうです。
摂関家ともなると接待慣れしてるからなぁ~長逗留されたら大変そうだ^^;
とにかく!織田信長の思惑通りには行かなかったが、島津と相良は近衛前久の仲介で和睦した。
これで4度目の和睦・・・が、破たんするのは言うまでも無いが、それは・またの話 by^-^sio