キングオブ九州探題・大友宗麟が島津家に敗れた(既に隠居してキリシタン三昧だが世間では、こう見る)事は、肥後の国人領主たちにとっては衝撃だった。
![家紋・大友]()
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肥後国人たちの脳裏に真っ先に浮かんだことは「阿蘇家とは離れよう!」だった
阿蘇家は大友家と縁戚関係(現当主の祖父の正室が、宗麟の実叔母)である事をテコに、
長年、肥後国人たちの盟主というか兄貴分的立場でして、
むろん戦国時代だからして、何時も友好関係なわけじゃないけど、
肥後の国人たちは、阿蘇と何かあったとしても、結局は大友の後ろ盾がある阿蘇家を蔑ろにすることは出来なかったんです。
だが大友家が衰退した今となっては「大友のバックアップ」という看板が、阿蘇にとって禍したのだ。
身軽な国人たちと違い「阿蘇神社・大宮司&肥後の盟主的存在」という立場が、阿蘇氏の去就の判断を遅らせたのかもしれない。
一方の大友宗麟、起死回生の外交戦術「織田信長の介入」は、一回目交渉が失敗し頓挫した。
失敗の理由の一つは、仲介役の近衛前久が島津義久に「麿に日向鷹ちょうだいネ*人 ̄▽)♪」と、
ちゃっかりおねだりするなど、他人事・遊び気分混じりだったのも多少はあるだろう^^;
メイン理由は、この頃に徳川家康が正室・築山殿と嫡男・信康を処断してて、
信長の神経がそっちに集中して、ちと九州どころじゃなかったから^^b

(ロン様作成:大友家紋ロゴ)
肥後もっこすA「北からは龍造寺、南からは島津~~どっちか決めないとなぁ」
天正7(1579)年?月?日~天草鎮尚が相良家を離れ、島津配下になる。
天草鎮尚はキリシタンの洗礼を受けた時(天正2=1574年)に、弟が大反対して家中を二分する争いとなった。
鎮尚弟は「兄貴は相良と組んでるから」ってことで「相良の敵・薩州家の島津義虎」を頼った。
で、結果↓
鎮尚弟「相良さぁ~ん!すいませ~ん、兄貴に負けちゃいました~島津とは離れるから匿って下さい」と居候。
天草鎮尚との関係を考えれば非常に迷惑なんだが、国人に頼られたらNOと言えないのが戦国大名の辛いとこ。
天草鎮尚は天正4(1576)年に島津と和睦したが、それだけだけじゃ治まらず年々大きくなる島津からの圧力に遂に屈した。
天草諸島の全ての国人が島津サイドになった訳じゃないが、
天草で一、二を争う有力国人だった天草鎮尚が、島津配下に与した影響は大きかっただろう。
何よりも相良家の「明との交易ルート」が脅かされてしまう。
天正7(1579)年9月?日~新納忠元の大口勢が葦北の朴河内(ほうこうち)城(現水俣市宝河内町)を一回目の攻撃。
情けないことに相良家臣の城主・東頼兼と頼一親子は、大口勢の攻撃にビビり城を捨てて逃げた^^;
(東頼兼は岡本(あさぎり町)地頭の東頼春の子で、天文19(1550)年父の死去で僅か15歳で城主に抜擢されていた)
八代から援軍が来たので、何とか城は落城を免れました( ̄ー ̄A 汗フキフキ
解らないのは、失態をした東頼兼が引き続き朴河内城主してることなんだよなぁ。・・・ポリポリ(6 ̄_ ̄)
何となく相良が人材不足に感じるのは、管理人だけでせうか( ̄  ̄)トオイメ。。
肥後もっこすB「相良の支城が島津の攻撃受けたぁ!島津と相良は停戦してたが、その前に相良が3度も島津を裏切ってたからなぁ~やっぱ4度目の和睦も破綻したか!」
肥後もっこすC「今後は相良と同盟してる阿蘇と関わるのは増々ヤバイ!」
肥後もっこすD「離れるとか関わるとか、まだるっこしぃ。積極的に阿蘇を潰して生き残り好位置キープすべし(O ̄∀ ̄)ノ」
天正7(1579)年秋頃~肥後国人の城氏と名和氏が島津へラブコール~
求めに応じた島津が隈本城へ佐多と川上を派遣する。
佐多家は島津分家の一つです^^川上も知ってる人は知ってる有能武将^^
国人の城氏は元菊池家3家老の一つ、名和氏は相良シリーズで何度か出てますね^^b
阿蘇氏の頭越しに、肥後国人たちは島津や龍造寺にアプローチを開始する。
歴史で「○○家が、15**年に○○侵攻」って紹介される時は、○○家の本軍起動がベースになっている。
だが実際には、その数年前から動きがあり、それぞれの配下の国人による代理戦争が必ず起きています。
急成長する龍造寺と島津の狭間で、争いの「草刈り場」になったのが、大友サイドの阿蘇領だった。
隈本城に島津家臣の佐多氏、川上氏。
島津サイドに上記の城氏、名和氏。
龍造寺サイドに隈部氏、合志氏、川尻氏、鹿子木氏。
鹿子木氏の古文書に龍造寺への起請文があったような・・・
鹿子木文書が手元にあったはずなんだが見つからんil||li _| ̄|○ il||l
着々と阿蘇包囲網が出来ていく・・・
阿蘇包囲網は、阿蘇と同盟する相良家も、肥後国内において孤立して行くことを意味するのだが、それは・またの話 by^-^sio