歴史上、島津絡みで知名度がある「島津の水俣城攻撃」・・・の前に朴河内(ほうこうち)城が攻撃され落城したのを、無理矢理入れ込んだのですが、もう少し詳しく言わせて下さい^^
あ、今回のソースはハッキリしてます~梅山無一軒の南藤蔓綿録(なんとうまんめんろく)です^^b
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天正7(1579)年9月13日に攻撃を受けた時に、城主の東頼兼・頼一父子がビビって逃げたと書きました。
しかも内容は最低で逃げる時に、城兵はおろか家族まで置き捨ててました( ̄ー ̄A 汗フキフキ
で、八代勢の救援で落城寸前で守られたんですが、失態を犯した東頼兼・頼一父子は引き続き城主の任を継続してます。
八代には義陽の同い年の弟・頼貞が、還俗後津奈木領主になってて、天正7(1579)年当時は義陽と不和になり、八代の谷山というところで謹慎生活してました。
八代には頼貞擁立派がいたらしく(管理人の推測)、義陽にすれば武将としての資質はアレでも、東頼兼・頼一父子以外は信用できなかったんでしょう・・・。。(ω・`))シュン
自分が義陽の記録から感じるのは「孤独」です。
主戦派と頼貞擁立派(おそらく八代勢で両者はイコールか被ってる)からの突き上げに、
バラバラの肥後もっこす家臣団・・・個別には優秀でも纏まりが無い・・・
文治派タイプの義陽には、彼らを一致団結させるだけのカリスマが無かったのだろう・・・
相良家で義陽は、自分の胸の内を打ち明ける相手がいなかった・・・
少なくとも、それほど親しい人物を探す事は出来ませんでした。

(幸麿さま作画:義陽画像)
朴河内城が落ちたのは、天正8(1580)年5月12日、島津から二度目の攻撃を受けた時だ。
その際は夜になると嵐になり、風雨に紛れて島津勢が城内に侵入した為に落城しています。
その一方で同日に白髪岳にも島津勢が出陣していますが、
「夜の嵐で退却だぉ~白髪権現の加護だぉ」と史料には記されています。
どう考えても、白髪岳の方は囮で、そっちに気を取られてる隙に朴河内城内に侵入された~と思うが、
記録を書いた梅山無一軒さんは相良家の剣術指南役だった人で、孫の代に藩主に献上してるくらいだから「基本、悪くは書いてない」です^^
相良の家記って大火で焼失してるんだよなぁ( ̄  ̄)トオイメ
朴河内城が落ちたとなれば、島津が次に水俣城を狙うのは、誰の目にも明らかだ。
緊張の高まる中、一人の稚児が寺を脱走し、水俣城に入った
それは水俣城主・犬童頼安(1577年より水俣城主)の息子・頼兄(よりえ)~
後に相良家筆頭家老となり、相良家で超絶な権勢を振るう犬童頼兄が歴史に躍り出る瞬間だった。
犬童頼兄(いんどう よりえ)は永禄11(1568)年産まれだから、伊達政宗より一つ年下で、水俣城攻撃当時は13・14歳くらい。
ウィキペディアには
「父・頼安が水俣城に籠城、苦戦していると聞き及び寺を抜け出して共に籠城」
と記載されているが、籠城中に島津の囲みを突破して入るなんて、どんな豪傑な13歳だよ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
もちろん実際は籠城前に入ってたそうで、時期としては朴河内落城の後だと思います。
稚児になっただけあって犬童頼兄は美少年だったらしい・・・( ̄∀ ̄*)ポワ~ン
悪役が美形なのは、もはや定番なのか、それは・またの話 by^-^sio