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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【相良忠房2_叔父というものは謀反を起こすと相場が決まっているらしい 】

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相良はミステリーがイパーイ\(≧▽≦)ノ~
本日の推理前提は以下の3つ
1)相良家にはVS島津主戦派がいる(脳内推理では八代衆?)
2)頼貞(亡き義陽の異母弟)当主推戴派は、島津主戦派と(=イコール)である
3)頼貞本人も島津との和睦(実質降伏)に反対の主戦派
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何度か「相良は御家騒動が多い・多い」と連呼していたが、ついに(やっと)具体的に(まとめて)言う時が来たようだ(* ̄ー ̄*)ニヤリ

まぁ~あんま遡るのもシンドイので、亡き義陽に近いとこにします^^b

相良15代当主というのが、そもそも14代当主だった甥を o( ̄ー ̄θ★ケリッ と追い出し家督を簒奪した叔父様です。
追い出された14代は、叔父の15代に自殺に追い込まれてしまいました(;;)

その15代を(詳細略)倒して当主になったのが、16代義滋(14代の異母兄弟~14代が嫡出子で他は庶子)です。

16代義滋の養子になり17代となったのが晴広(義陽ダディ)
17代晴広の時は御家騒動は無し。
晴広の実父・上村頼興が邪魔者を全部サクッと殺ってたからです( ̄ー ̄A 汗フキフキ

ちなみに17代晴広の時に起きた「肥後の反乱」、キング大友家に謀反起こした菊池義武は「宗麟の叔父」^^b

18代義陽の時に、叔父の上村3兄弟(ダディ晴広の実弟たち)が謀反を起こし、
さぁ忠房が19代になるぉ~と決定したそばから、叔父・相良頼貞(義陽の異母兄弟)が挙兵した!

14・16・18・19、叔父と揉める歴代当主たち。ちと多過ぎじゃね?,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
城・人吉城、二の丸御殿の長塀跡
人吉城、二の丸御殿の長塀跡

記録が少ない義陽の同年・同月・同日生まれの異母弟・頼貞は、義陽と不和となり八代で謹慎していた。
それが天正9(1581)年の島津による水俣城攻撃前後に八代を逃亡し、日向の飯野に潜伏?してたらしい(相良側に記録無し)

天正9(1581)年、義陽の死直後の12月20日、その相良頼貞が飯野から出て挙兵し球磨と真幸院(日向=宮崎県)国境の寺に陣を敷いた。
で、頼貞に多良木地頭の岩崎加賀が同調しました。

これは忠房が19代として家督を継ぐと決定した後のことで、相良側には翌日の21日に頼貞が挙兵したと伝わります。
一方、頼貞は笠木(今の加久藤峠あたり)に至り、そこの常秀寺を本陣とした。

実は史料には「頼貞挙兵で戦はなかった」ように書かれているのだが、

「人吉市史」によると人吉城へ向け銃が放たれたそうで、岡本頼氏(水俣城攻防戦の前線指揮官・有能武将)が被弾!
岡本頼氏の体から弾が二発が出てきたとの事で、しかも内一発は、明治の終わり頃に紛失(涙)するまで現存していたそうです。

・・・だから人吉城が攻撃を受けたとすれば、この21日か、その2、3日後のはず。

風雲急を告げる相良家で、事態を収拾すべく登場したのが深水宗芳~
深水宗芳、天文元年(1532)生まれだから数えで50歳。
もともとの名前は深水長智で17代晴広の13回忌に剃髪し、宗芳と名乗った。
今までチラ出ししか出来てなかったけど、奉行としての能力に長けた相良家の重鎮。
和歌の才に恵まれ、それを活かした交渉術にかけては超一級品~(* ̄・ ̄*)Vブイ
深水宗芳の嫡男は、この後の阿蘇氏との戦いで討死しており、それが後に相良家の御家騒動の遠因の一つとなる。
家紋・相良
(ロン様作成:相良家紋ロゴ)

その深水宗芳が頼貞の本陣を訪ねて言上した。
「頼貞が立てば義陽の(頃と同様に)治世が続くため、人吉城の者はこれを受け入れる。
しかしながら上球磨の者達の動向が判らないので、自ら出向いてほしい」
と伝えたのだが・・・・勿論、謀略 (* ̄・ ̄*)Vブイ

頼貞「・・・・・(考)・・・」結果は岩崎加賀と共に上球磨へ出向いた。
二人が行くと島津家が派遣した"久無木狩野"(ただし島津家臣の姓の中には見当たらない・久富木(くぶき・大口衆)の誤記?)が率いる500余名に囲まれた。
頼貞は、島津家臣に「この謀反を成功させる難しさ」を説かれ、やむなく諦め岩崎加賀共々日向へ落ち延びたそうだ。

・・・・・・・|壁 |_ ̄)じー・・・なぁ~んか、怪しい・・・。

実は同じ頃、八代でも反島津を掲げて、元八代奉行の東山城守らが挙兵して島津に鎮圧されてます。
それは頼貞と連携したものじゃなかったんだろうか(上記の前提ネ^^b)

この話には二つの推測が考えられます~

1)この経緯は「島津が相良を潰すつもりが無い」という話の傍証になります~
島津が相良を潰したければ、そのまま頼貞を「説得」などせず放置しておけばいい。
相良家は内部分裂して自滅していくだろう。
だが島津にとって、相良家を「磨り潰して地ならしするという手間」をかけるより、そのまま自分たちに服属させて、将来に亘って利用する方を選んだのだと思う。

シーマンズ「葦北は手に入れたし♪この後は阿蘇領も龍造寺領も頂く予定だからぁ♪ガツガツしないぉ♪他の肥後国人たちに薩摩隼人の懐・ひろーい、とこ見せるんだぉ(*´艸`)」

2)頼貞が島津主戦派だったということの傍証にならないだろうか?~
若年では当主が務まらぬ、成人まで叔父が後見~もしくは暫定当主になる例は珍しくない。
もし島津のバックアップで頼貞が当主になったら、どうだろう。

父を死に追いやられた息子の忠房よりも、本来なら家督に縁の無い庶子が当主になったラッキー(* ̄・ ̄*)Vブイ 
島津に感謝する度合い(恩義・忠誠心)は、頼貞の方が強くないだろうか?

庶子・庶流が当主面するには、外交上の後ろ盾をもって家中の意見統一を図る。
そうなれば頼貞は(簡単には)島津を裏切れない。

だが現実には、島津家は忠房に味方し、頼貞の後ろ盾にはならなかった~
それは島津にとって、頼貞が当主になっては不都合な人物(島津主戦派)だからではないだろうか~
主戦派=頼貞擁立派なら、頼貞を排除することによって相良家中における主戦派をも一掃できます。
(命を奪わなくとも、政治的には旗頭を失い求心力を失います)

頼貞の子孫は栗野(鹿児島県)に住んだと言うが、それも相良側に資料が無く真実は遥として知れない。
はるか後年、家老に蔑ろにされて餓死、という非業の死を遂げる頼貞の同母妹・亀徳姫。
頼貞に連なる人物は、相良家にとっての黒歴史だったのだろうか。

相良家では、義陽の死・直後に起きた謀反を「小事」として扱い、記録も有耶無耶だ。
だが叔父の謀反が「小事」であるはすがない。
頼貞謀反の余波は更に相良家を揺さぶるのだが、それは・またの話 by^-^sio


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