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湯山地頭・湯山宗昌と、その弟・盛誉(普門寺5代院主)が、頼貞の謀反に呼応していたと讒言された。
頼貞に接触された湯山には謀反加担の意思は無く、申し出をキッパリを断った。
だが「その気が無ければ最初から会わないはずだ」と人々は湯山兄弟を疑った。
湯山は自分の軽率な行動を反省し、弟と妻子や従者と共に普門寺にて謹慎し沙汰を待つこととした。
で、忠房の元服と島津との和睦(=実質配下になる)が整い、改めて湯山兄弟の処遇が詮議された。
結果「湯山宗昌一族はクロ認定!」忠房の名で湯山を誅滅するよう米良の士卒に命じた。
米良は嫡流ではなく、庶流の須木米良氏で島津サイドの国人です。
このあたり相良兵を使わず島津サイドの国人を(おそらく島津に申し入れて借りた)使ったところに、
「頼貞擁立派=島津和睦反対派」の傍証になるかもです。
島津へ服属した確かな証として、相良内部の反対派を粛清したところを見せようとしたのでしょう。
それがどういった経緯を辿ったか定かでは無いが、
とにかく命令を下した後で湯山宗昌らが無実であるとわかり、
「討伐中止!」と犬童九介なる者に軍勢を追わせた。
ところが、この犬童九介・・・一つ欠点があった・・・無頼の酒好きだったんです。
途中、知人の家に立ち寄った際、
(勤務中~しかも人の命に関わる緊急事態の使者ですが?)
その近所にある馬療治の家に案内され、そこで酒を飲み過ぎてしまい(緊急だっつ~の!怒)気付けば夕刻となってしまっていた。
慌てて道を急ぐも夜となり、酔いもあってかそのまま眠り込んでしまった。ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.
天正10(1582)年3月16日、そうとは知らぬ米良の士卒は予定通りに普門寺を襲撃。
兄の湯山宗昌は、なんとか抜け出し日向へと落ち伸びることができたが、
弟の盛誉は、弟子と共に読経中に黒木千右衛門により一刀の元に殺害された。
弟子らも「院主様の仇」と敵(相良家が派遣した米良兵)に飛び込むが、結局討ち取られてしまった。
犬童九介が目を覚まして駆け付けた時には既に後の祭り、全てが終わっていた。( ̄  ̄)トオイメ。。
犬童九介は責任を痛感し、その場で切腹して果てた。
どの面下げて報告できると言うのだろう・・・バックレ出奔しないだけマシか(トホホ)
これで話が終わるはずがない。
相良家中では凄まじい祟りに襲われるのだが、それは・またの話 by^-^sio