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【相良忠房5_閲覧注意・怨霊 】

https://history.blogmura.com/his_sengoku/ にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代

湯山兄弟の謀反加担が無実と解り「ちょっと待った」しようとしたが、
使者が飲んで呑まれて遅刻して~~~中止命令が間に合わず、
謹慎中の湯山兄弟は襲撃されてしまい、兄は日向へ出奔・弟は殺されてしまった。

そもそも中止命令を出したのは、弟の方が僧侶で「普門寺院主」というのが考慮されたのが大きかった、
(てことは湯山兄を完全にシロと判断した訳じゃ無さそうだなぁ~ポリポリ(6 ̄ ・ ̄)~♪)

それなのに弟の方が殺されてしまった><;アウチ☆
気まずいなんてもんじゃない、呑まれた使者は責任とって切腹自害~だが、それで話は終わらなかった。

その数日後、市房神社に籠り祈念する老女が現れた。
その老女とは湯山兄弟の母だった。
老女は愛猫の黒猫を連れこの神社にやってきたのであった。

老女はその日から断食を続け(飼い猫も一緒に強制断食)日に日に痩せ衰えていく。
そして断食も21日目となったある日、老女は突然自らの指を噛み切り流れ出る血を狛犬に塗り付け、更に餓えた愛猫にその血を吸わせたのである。

老女は愛猫に話しかけた。
玉垂(読み?飼い猫の名前)や、聞いておくれ。
わたしの子は罪もないのに、一人は殿様に殺され、一人は行方知れずとなった。
殿様のなさる事とてあまりに酷い。
あまりに情けない。
けれども年老いた女の力では仇討ちもできぬ。
玉垂や、私の気持ちをわかっておくれ・・・・
玉垂や・・・末代まで相良家を呪え!!
天正10(1582)年4月28日・・老女は呪いの言葉を吐くと、湯山の沢に愛猫を道連れに入水した。

ほんとに怖いのはココからです(;;)実は老女は娘(養女)を同行させてたんです。
怖がりの割に5ちゃんねるのオカルト板まとめをROMしてる管理人。

そこから得た知識なんですが、呪詛の満願成就は21日間で邪魔が入ったらやり直しは出来ないんです。
(失敗したら禍が呪った本人と、その身内に降りかかるので物理的に履行不可)

それと一般の呪詛だと、相手を模る「形代」や「呪符」をソッチ系の祈祷師から貰って、
3寸だか5寸だかの釘ぶっ込んだり、呪符を相手の家の何処かに仕込んだり(これはプロ系)するんです。
だが呪う相手が主家の相良では、どの祈祷師も承知しないし、下手すりゃ呪詛話が漏れて邪魔される。

それと形代・呪符を使用した呪詛の場合、それらが発見されれば呪詛が効力を失うだけでなく、
「呪詛返し(=呪いの解除・一般では解除された禍は、呪った本人・身内に返るとされている)」に合います。
「呪詛返し」されたら、娘や行方知れずの息子に危難が及ぶかもしれない。
呪詛として最も直接的で最も強力、かつ「呪詛返しが不可能」なのは、
「形代や呪符を使用せず」「自分自身を生贄として捧げる」ことです。

恨みを持って死んだ者の霊魂を鎮めることは容易ではない、しかも使い魔として猫まで用意する周到さだ。
非力な老女が究極の復讐方法として選んだのが、自らを犠牲にした解除不能の完璧呪詛だったんです。
だが誰にも知られてないだけに、遺体を発見されたら「単なる自殺」で処理されるだろう。

娘は「呪詛が邪魔されないための見張り」であり「呪詛が[目出度く?満願成就]したことを警鐘する役」だったと思う。
娘の警鐘によって「呪いの形式は完成」し、同時に「呪詛効力スタート」です。

警鐘役がいない場合は「何らかのタブー(墓に不敬したとか)に触れた(つまり相良家とは限らなくなる)者が、呪詛を受けてしまう」
だが無関係な者に禍が降りかかるのは、老女の本意ではなかったので「呪詛システムにスイッチを入れる警鐘役」が必要なんです。

ちなみに養女とは老女の姪で、名前は鶴菊。年は二十歳そこそこ。
幼い頃より老女が引き取り、手元で養育してたんです。
そういう事情の娘さんだったので、老女の呪詛に同行し見届けるという辛い役割を引き受けたのでしょう。
養女・鶴菊は呪詛満願成就(老女とヌコ入水)の後に、俗世を捨てて尼となりました。


それからである・・・湯山弟・盛誉を切った黒木千右衛門が突如病気になった。
黒木は猫に脅えるような言動を繰り返し、やがて気狂いして息絶えた。
災いはそこのみに留まらず、遅刻使者・犬童九介に酒を飲ませた馬療治の主人一族にも及んだ。

人吉城下でも怪しい影が出没し、さらに同年8月27日~亡き義陽の長女が18歳の若さで死亡。
城ではあらゆる祈祷を行ったが、何せ「自分が生贄の超強力呪詛」なんで効果は現れない。

そしてあろうことか、遂には討滅を命じた当主・忠房も14歳という若さで病死してしまったのである。
命令当時は11歳~~~「重臣が決めた事にサインしただけなのに~by忠房・涙」
家中期待の美少年・若当主だったので、その死亡で相良家のガッカリ具合は半端じゃなかったらしい^^;

この猫騒動は、超強力呪詛だった(と世間も怯えた)せいか10年以上の長きに亘って続いた。

慶長2(1597)年に義陽次女・千満が虚症を発症した時も祟りのせいだと思われたようで、
その年の11月28日に青井阿蘇神社に祠が建ち鎮座されまして、
相良当主と領民が参詣する祭礼は毎年この日と定めて、ようやく祟りが下火になったそうです^^;

さらに追善のために、焼かれた普門寺の跡地に千光山生善院が建ち阿弥陀仏が安置されたのが寛永2(1625)年10月18日です。
この由来から生善院は通称「猫寺」と呼ばれ、門前両脇には狛犬のように猫の銅像が安置されてます。

ちなみに出奔した湯山兄の方なんですが、ちゃんと相良家に帰参してるんです^^;
でも一度スイッチが入った呪詛は、息子とは無関係に猛威を振るった。

でもって帰参した息子も朝鮮の役で戦死しちゃってます。
尼になった養女・鶴菊も老女入水の6年後、天正16年3月24日に病死しました。

直接の関係者が全て死に絶え、呪詛解除の手がかりが完全に無くなったのが、
相良家中総出で鎮魂・追善に走った理由かなぁ~と感じる。
(そっち系の話だと、身内が出家して霊を慰めてトントンってパターンがあるんで)

ホラー風味抜きで語りますと
島津との和睦派・反対派の揉め事は、史書の中には全く出てないけれど、実際は表に出ないドロ沼があったと思う。
それが「猫騒動」に結びついて、人々の後ろめたさが「呪いを恐れる気持ち」を長びかせ「何でも祟りのせい」にしたのだ・・・と、感じてます。
民間伝承と史実は意外な接点が往々にしてあるものですからね^^
それは・またの話 by^-^sio

次回より新章・相良頼房

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