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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【相良頼房1_プロローグ 】

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まもなく「戦国」という一つの時代が終わろうとしているのを、認識している人が果たして何人いただろうか。
「終わったと思えば、忘れたころに戦」で、その時代を生きた人には明確な線引きは不可能だろう。

また戦国時代の牽引力となった国人たちは、その存在役割を終えようとしていた。
封建体制・中央集権国家を目指す者にとって、「独立自尊」の気概をもって戦国大名の家臣になるのを拒む国人領主は邪魔なものでしかない。

「天下人」の目指す「新たな国家像」は、日本各地の国人たちの血と肉で贖われた。
その天下人の断固たる意志と権威確立のために、火の国・肥後が最初の贄(にえ)として捧げられようとしている。

激しく動く時代の中で、少年当主を戴く相良家は大海に浮かぶ小舟のように揺れ動く。

九州の役・天草&肥後国人一揆・梅竹一揆・朝鮮の役・庄内の乱・関ヶ原の戦い
君ナラ生キ残ルコトガデキルカ?
「相良頼房の章」スタート。

5話で死んじゃう義陽の嫡男・忠房クン(しかも最後は猫騒動^^;)ですが、新章は義陽の死んだ翌年に戻ります。

新章の頼房(よりふさ)は、義陽の次男で生母(側室)は忠房と同じです。
武家で嫡男の扱いが別格なのは言うまでも無いのですが、実は次男と3男以下の扱いにも差があります。
というのも次男は嫡男に万が一あったときの大事なストックだからです。

島津家だと4兄弟の長兄・義久と次男・義弘は、日新斎ジーちゃんの膝元で一緒に薫陶受けてます。

相良家が島津家に降伏した時に、人質として差し出す人選に嫡男・忠房だけでなく次男・頼房も要求したのは、そういった背景もあるんです。

嫡男・忠房クンは天正10(1582)年に家督を継いだのですが、弟・頼房と共に薩州家(島津分家筆頭)預かりのままで、そのまま出水城に留まってたようです。

事情も家臣の気質も違うんですが、徳川家康(竹千代クン)が今川家人質で、三河武士団が留守を守ってたのと似てます^^

てことで竹千代クンにとっての鳥居忠吉にあたるのが、
相良忠房・頼房兄弟における深水宗芳と犬童頼安になります。

戦国時代に少年当主で、しかも当主自身が人質で不在なんです。
深水宗芳と犬童頼安がいなければ相良家は潰れるか、島津に完全に吸収されていたでしょう。

深水宗芳(50歳)は17代当主晴広の13回忌の折に剃髪しましたが、
犬童頼安は18代当主義陽の死後に、二度目の剃髪をしました。
(一度目は子供の時で成長後に還俗して(詳細略・経歴は記事アップ済)武士になった)

剃髪したから名前も変わったんだけど、自分が混乱するので当分、犬童は頼安で通します^^;
でもって犬童は響野原の義陽の討たれた場所に、義陽の廟所を建ててます。
そこは街道だった為に人馬が通るのを勿体ないとして、豊福の人夫に土を盛らせて廟所を建てさせました。

犬童にすれば一度謀反に加担して出奔してた自分を帰参させるだけでなく、その能力を認めて引き立ててくれた事に感謝してたんでしょう。

元々犬童一族にとって、義陽の相良家は仇でした(だから復讐の為に謀反加担した)
その恩讐を凌駕するほどの恩を義陽から受けた・・・と考えてたかもです。

天正10(1582)年6月2日、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれる。
同年6月13日、山崎の戦いで明智光秀が羽柴秀吉に敗れる
この中央政界、驚天動地の一大事が余波となって、九州に影響する。

織田信長の介入によって、渋々(--怒)大友と和睦した島津家。
大友宗麟にすれば織田家の力を借りて島津を退けようとしてたのに、まさに泣きっ面に蜂状態。

島津にすれば五月蠅い魔王蠅がいなくなって、豊後侵攻を阻む者がいなくなったのだが、島津の矛先は肥後に向いていた。

同年?月?日~天草鎮尚が死亡し嫡男・久種が家督を継ぐ。
天草氏は大蔵系氏族です~

はっきりした記録は探せなかったのですが、鎮尚の鎮は大友宗麟からの偏諱のようです。
(一時期、大友家が天草諸島に介入したことがある)

武家家伝・天草氏では「響野原の戦い」で天草氏が相良家に助勢し奮戦したとありますが、これは違います。
天草鎮尚は既に相良家に見切りをつけて、島津配下となってます。

ただ鎮尚の弟が兄貴と大ゲンカし(鎮尚のキリシタン洗礼に大反対)天草家を出て相良家に帰属してました。
奮戦し義陽と共に響野原で散ったのは、この鎮尚弟で、翌年に後を追うように兄も死亡したんです。

家督を継いだ久種の年齢は不明ですが、島津義久に付き従い転戦してたようなので、相良兄弟のように若年だったかもしれません。

同年?月?日、天草諸島で龍造寺サイドだった大矢野氏が島津家に降伏する。
同年10月~12月上旬、龍造寺隆信~赤星の人質(娘8歳・息子14歳)を誤解から磔にして殺す・・・悲憤の赤星は龍造寺サイドから島津サイドへ寝返る。
同年11月22日、甲斐宗運が島津に和睦を申し入れる。
島津と龍造寺の対決が刻一刻と近づいていくなか、相良家では3月に湯山騒動⇒4月老女の呪詛で猫騒動^^;

さらに8月27日に亡き義陽の長女・虎満が18歳で死亡し喪中が続く~_| ̄|○ il||li がくぅ

つまるところ「義陽の死⇒義陽の弟が挙兵」の痛手でから、未だ人心が不安定だったのだが、
それは・またの話 by^-^sio

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