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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【相良頼房2_戦の前には和睦ありき 】

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新章突入の関係で更新遅れてすいません^^;
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天正10(1582)年6月2日、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれる
同年6月13日、山崎の戦いで明智光秀が羽柴秀吉に敗れる

同年11月20日、甲斐宗運が島津に和睦を申し入れる。

上記の島津に対する甲斐の和睦申し入れだが、甲斐は本気で和睦するつもりじゃなかったらしい。

甲斐宗運は11月20日に島津家久(4兄弟末弟)に和睦を申し入れ、承諾されます。

すると甲斐は22日に「旧領(おそらく宇土半島)を返して( ̄∀ ̄)テヘ」と求めます。

島津諸将は家久に
「普通ならば領地を献じて降伏を乞うべきを、逆に土地を求めるなど無礼なるかな。
これを許してはなりません(怒」
と述べ、家久も当然承服しません。

さらに甲斐は使者を出し「敢えて土地は求めません。願わくは宇土に庇せん*人 ̄▽)♪(宇土を格護したいの意か?)」と伝えてきます。

家久は「汝の子を必ず人質に出し、隈部氏を討つべし」と返しますが、

甲斐は「願わくば(島津が)隈部氏を討って下さい(ソッチデヤッテ)」 

とまぁ、こんな感じで、のらりくらりと相手を食ったような返事をして時間稼ぎをしていた。

時間稼ぎには2つのパターンがある。
1・歯医者の予約のように嫌なことを先延ばしたいだけ
2・いま粘れば援軍(この場合は龍造寺)が来る

主君・阿蘇氏の縁戚だった大友家に見切りを付けて、龍造寺家に友誼を通じた甲斐宗運。
龍造寺氏が自前の水軍で、海路やってくるのを知ってたんじゃないだろうか。
(有明海は台風時期でなければ大丈夫^^)

甲斐宗運の死亡時期には天正11(1583)年説と天正13(1585)年説がある。

そして甲斐宗運は遺言で「島津には決してこちらから戦いを仕掛けず、矢部(阿蘇氏の本拠地)に篭って守勢に徹し、天下を統一する者が現れるまで持ちこたえるように」と言い残していたそうだ。

いずれにせよ、甲斐宗運は阿蘇氏単独で島津と戦になるのを、何とか避けようとしていたんです。

甲斐が島津を焦らせてるうちに明けて天正11(1583)年
3月2日、秋月種実が島津義久に談合の申し入れをする。

同年3月21日、忠房と共に頼房・深水宗芳・犬童頼安が鹿児島の義久に謁見。
引き出物を献じた後に頼房の宿所へ伊集院忠棟・本田親貞・上井覚兼が訪ねてプチ宴会。
オジサンの宴会席に畏まっているのは、子供にはキツかったろうなぁ^^;

同年7月21日、龍造寺信が前年10月から揉めてた田尻氏と和睦。
同年9月27日、秋月種実から隈本へ使者派遣⇒龍造寺と島津との和睦仲介の申し入れ。

秋月使者の口上「共に大友義統を討つならば、龍造寺家と秋月家は島津家を九州之守護と仰ぎ奉ることでしょう」m(_ _)m
あくまでもハブられる大友家,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

同年10月9日~島津側が和睦を受け入れる
同年10月22日~秋月使者が(帰路)八代へ入る
この9日~22日の間に竜造寺と島津の和睦が成立したらしい、国境は菊池川と決まった。
あり?国人たちは強制的に、島津か龍造寺のどっちかに入るわけ?!

龍造寺と島津が秋月種実の仲介により手打ちとなり、肥後は一時的に落ち着いたかのように見えた。

ところが、そうは問屋が卸さない~~~~~~~~

天正11(1583)年・・・この年、阿蘇家の当主・阿蘇惟将が死亡した。
相良家のかつての同盟相手・阿蘇氏の没落が始まったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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