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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【相良頼房3_宿縁 】

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振り返ると、相良編は阿蘇氏と甲斐氏の話から始まった。
年号で言うと永正年間(1504年~1521年)でして、通常の時代小説では馴染のない年号なので、
読んでくれる人がいるか不安なスタートでした^^
(結局もっと遡って解説してる,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!)
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自分が阿蘇&甲斐主従から話すことに決めたのは、相良義陽と甲斐宗運の友情を描くためではありません。
推理記事で説明しましたが、義陽が死を決意したのは「甲斐宗運との友情からという通説」を使うつもりは最初からありませんでした。

阿蘇氏からスタートしたのは、阿蘇氏と相良氏を制する者が肥後国を制するからです。
肥後守護職である菊池氏が大友宗麟によって滅ぼされた後は、肥後国を統一する者は現れませんでした。
大友氏が守護職なんだけど、肥後の度重なる謀反に懲りて守護代を派遣せず、肥後は半自治国となった。
ですが国人たちに影響力を持つ2大勢力として、相良氏と阿蘇氏があったのです。

相良氏と阿蘇氏さえ潰せば、肥後国人は「抵抗を続けるより服属して領地安堵する道」を選択します。
卑怯でも根性無しでもありません。「強きに従う」それが国人というものなんです。

ウィキペディアでは「島津が肥後統一を狙って」「初めに阿蘇潰しありき」のようなニュアンスで書かれています。
確かに阿蘇氏は大友サイド(縁戚だった)でしたので、「大友VS島津」という構図のみから見れば、そうなります。

「三州(薩摩・大隅・日向)統一」は、島津が題目のように唱えていた悲願でした。
ですが肥後の場合は統一が目的ではなく「時の勢い」というもので、島津自身にも制御できない奔流のようなものだったと思います。

繰り返すようですが、島津を都合3度も裏切り続けたのは、相良義陽の方なんです。
怒った島津が実力を蓄えた時点で、相良へ報復するのは当然のことでしょう。

そして相良を降すほどの力を持つ者が出現すれば、肥後国人は続々と帰属・服属するので、
そうなると島津内部でも「もう、このままイケイケ領土拡大」という主戦論が占める。
相良が実質降伏し島津が勢力拡大するに伴い、じょじょに阿蘇領は浸食されていた。
家紋・阿蘇
ロン様作成:阿蘇氏家紋ロゴ)

筆頭家老・甲斐宗運は大友から龍造寺に乗り換え、和睦交渉で時間稼ぎしつつ粘っていた。

天正11(1583)年、この大事な時期に当主・阿蘇惟将が子供の無いまま死亡~Σ( ̄O ̄ノ)ノええっ
天正12(1584)年3月18日、沖田畷の戦いで同盟相手の龍造寺が島津氏に大敗北~Σ( ̄▲ ̄ノ)ノひぃっ
ちなみに、この前後くらいに相良忠房クン(兄)と頼房クン(弟)は、人質の任を解かれて人吉に帰ってたようです^^b

同年?月?日、家督を継いでから一か月後、弟の阿蘇惟種が45歳の働き盛りで死亡。
嫡男・惟光は僅か2歳~(TOT)あぅっ
天正13(1585)年7月3日~トドメ!阿蘇筆頭家老・甲斐宗運が死去!ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

宗運の跡を継いだ息子は(残念な器量)となっているが、そうでなく普通レベルでも阿蘇氏の難局は乗り切るのは不可能だろう。
「もう少し粘れば九州の役で島津征伐されたのに~」という考えは甘い。

なぜなら関白・豊臣秀吉は神社系武家を一つ残さず潰すつもりだったからだ。
軍事力を持つ宗教勢力に各戦国大名は手こずり振り回されていた。
誰が天下人になっても秀吉と同じ事をしただろう。

阿蘇氏が『武家として』生き残る方法「個人的推測」^^
 ・阿蘇神社の大宮司であることを放棄する
 ・阿蘇領地の全てを関白に献上
 ・幼少の当主・惟光を人質として大坂に留め置く
 ・四国か東北のどっかに2~3万石ほどで、阿蘇とは一切地縁の無いとこに領地替えする

ここまでやって、秀吉の御機嫌な時(秀吉は気分のアップダウンが超激しい)に交渉すれば「可能性はあるかも」という状態。
この「生き残る方法」は「阿蘇氏が阿蘇氏であることを止めること」だ。
とても実行できるものではないが、甲斐宗運が存命していれば「やってのけた」かもしれない。

かつて阿蘇氏は守護職・菊池氏の家督に首を突っ込み、そのために兄・惟長と弟・惟豊が家督争いとなった。
16代目・相良義滋と宇土の名和氏は、兄・惟長派だった。
もし惟長派が勝利すれば、相良・名和・阿蘇の三ケ国連合が、肥後を支配したかもしれない。
(とはいえ相良と名和の間には、豊福城問題があったので、これはこれで実現が難しい^^;)

阿蘇の家督争いを制したのは甲斐家を味方にした弟・阿蘇惟豊。
甲斐家は元々、菊池家庶流。
本家菊池氏と家督争いに敗れ、南北朝時代でもリベンジ失敗。
歴代甲斐当主は「いつか肥後に帰る(;;)」と、高千穂で黙々と実力を蓄えていたんです。

阿蘇惟豊に接触することで「念願の肥後入り」を果たした(甲斐宗運ダディの代)ので、
甲斐宗運にとって阿蘇氏は、何よりも・・・我が子の命よりも大事な主家だったのだ。

以降の阿蘇氏の家督は,甲斐家という守護神に支えられた惟豊系が続く。
甲斐家と惟豊系阿蘇氏は、まるで前世からの縁で結ばれた伴侶同士のようだ・・・
甲斐家を得て興隆した惟豊系阿蘇氏は、甲斐家が力を失うとともに、戦国大名としての命脈を失うのである。
家紋・甲斐
(ロン様作成:甲斐氏家紋ロゴ)

天正13(1585)年・・甲斐宗運が死亡し衰退まっしぐらの阿蘇氏だが、相良家でも御家存亡に関わる一大事が起きる。
それは・またの話 by^-^sio


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