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天正13(1585)年10月2日~豊臣秀吉から島津へ戦を止めるよう書状が届く。
同年10月?日~大友義統が日向表へ出陣~島津に撃退される o( ̄ー ̄θ★ケリッ~
阿蘇氏~島津へ降伏、
日向、高千穂の三田井氏~4兄弟末弟・島津家久に降伏~
同年11月18日~4兄弟次男~足利義昭から義の字を拝領~島津義弘と名乗る(途中の改名略~
同年12月~高千穂の三田井氏~国境の大友派遣軍を o( ̄ー ̄θ★ケリッ撃退~
同年12月25日日~豊臣秀吉~太政大臣拝命~
あぁ忙しい~アタ九州~ヘ( ̄△ ̄:)ノミヽ(: ̄▽ ̄)ノ中央~~フタ
天正14(1586)年1月11日~島津義久から雅(みやび)の友・細川幽斎へ書状
「大意:島津は豊薩(ぶんさつ)同盟を守っているのだから改易しないで」と秀吉への取り成しを頼む
(某サイトより抽出~出典:島津家文書)
豊(大友)薩(島津)同盟~名前だけで殆ど機能してないので、知名度は低いです。
(人質交換、起請文交換もなかった)
本願寺と和睦&武田家を滅亡させた絶頂期の織田信長に、
大友宗麟が泣きついて介入してもらって、島津と大友が和睦してました。
(けど、どっちも守ってない( ̄ー ̄A 汗フキフキ)
秀吉は帝の権威を利用して信長の指向した『惣無事(そうぶじ)という状態』を受け継ごうとしていた。
九州における信長が残した惣無事の状態が「豊薩同盟」だ。
だから秀吉の権威に島津が従うということは、島津が大友との戦を止めるということになる。
だが今更止めたところで島津は無傷で残りはしないだろう。
とりあえず仲介頼まれた幽斎さんは困っただろうなぁ( ̄ー ̄A 汗フキフキ
正直なところ、義久の意図がイマイチ解らない。
単に時間稼ぎのようにも思える。
ただハッキリしてるのは、島津義久は「豊臣政権を胡散臭い |_ ̄)じー」と思ってました。
鎌倉以来の守護職の家柄、というだけでなく島津義久の性格も厳格・謹厳でして、「ノーブル(高貴)」って単語がピッタリの紳士です。
「豊臣政権を認めたくない」って気持ちが、どうしても先に出ちゃうってのは、あったと思います。
同年1月23日~抵抗を続けていた阿蘇家臣・高森城が遂に落城~島津氏・肥後平定!
同年2月?日~豊臣秀吉の肝いりで大友と毛利が(やっと)和睦
まだ、してなかったんかい,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!!
まぁ、あれだ、だらだらと交戦状態で決着つかないままで、
毛利は秀吉(織田家臣時代)とガチンコ突入・大友は耳川で島津に敗れて衰退しちゃったんでつ ポリポリ(6 ̄・ ̄)
で、大友が豊臣政権の庇護下に入ったのを知り、筑前の筑紫氏が島津サイドから大友サイドに寝返った。
で、寝返った筑紫氏討伐の為に、島津義久が弟・義弘に出陣準備命令を出した。
これが島津軍北上のキッカケです^-^
同年7月に島津軍10万が筑後へ進軍~さらに筑前へGO!
岩屋城玉砕(大友家臣・高橋紹運以下、全員討死)は初代藩主柳川藩主編「名将の父・序の巻、破の巻、哀の巻」見てね
結果からいうと、島津「何のために北上したやら~とにかく疲れた_| ̄|○ il||li がくぅ」
って感じ^^
岩屋城は落としたものの、粘られて物凄い損害を出すし、若き鎮西無双(&立花四天王)には振り回され立花城も落とせず、筑後の問註所にも粘られ城を落とせず、
一応、立花宗茂の弟夫婦と筑紫氏を人質にとったどぉ~~かえって秀吉の心象を悪くしたんじゃ・・・ゴニョゴニョ
同年8月14日~豊臣秀吉の命で黒田官兵衛、安国寺恵瓊、宮城豊盛、毛利家臣・神田元忠が援軍として豊前に到着
同年8月24日~援軍の知らせに島津軍 ((((((((((っ´・`)っ 退却
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ロン様作成:島津家紋ロゴ
島津軍北上は、言い訳も誤魔化しもできない「惣無事違反」⇒⇒⇒島津は討伐の対象認定。
島津義久は暗愚ではない、惣無事違反になるのは解っていたはずです。
でも北上しないわけには行かなかった。
古くからの家臣・新たに帰参した国人・分家たち・・・
彼らの功名心を満たさなければ、島津宗家は惣領家たる資格を失う。
野生の草食動物が、地面に身体を横たえて寝ることが無いように、戦国大名も、足を止めて休むことは許されない。
同年7月?日~九州征伐・先発軍に出陣命令が下る
同年9月?日~先発軍・四国勢(大将は仙石・十河・香西・寒川・安富・長宗我部)が大友家、首都・府内へ着陣
いよいよ本格化する「九州の役」
その歴史のうねりに相良家も巻き込まれて行くのだが、それは またの話