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【相良頼房9_脱出】

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チームワーク抜群だった島津4兄弟・・・その次男・義弘と末弟・家久が大ゲンカ。
そのキッカケが豊後侵攻だった・・・肥後口から侵攻し岡城に手こずった島津義弘。

義弘(O ̄∀ ̄)ノ「家久~~おぃに援軍ば出しっくんやい~」

家久(* ̄^ ̄*)「お断りしもすぅ~ わい(自分自身)でどげんかすっでごあんど~」

義弘(* ̄□ ̄*)「怒)どげもならんやっで、頼んじょっちゃが~~援軍出しっくんやい」

家久(* ̄▲ ̄*)「イラッ)卜占で援軍は凶事っせ出たごわんで、援軍はなりもはん~」

こんな感じのやりとりの結果・・・家久軍は戸次川合戦で先発軍・四国勢を撃破、さらに大友首都・府内制圧~~
と、義弘軍は美味しいところを、家久軍に先んじられてしまった。
(お蔭で岡城攻城戦の知名度が戸次川合戦に喰われてる^^;)

これには島津義久の軍編成方針も、多少からんでいる。
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人物・島æ´\義弘
最前線大スキー猛将・義弘(次男)

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人物・良い家久
野戦指揮官として抜群の戦場勘を持つ天才・家久。(四男・異母弟)

長兄で当主の島津義久は、それぞれに一軍を率いさせ互いをライバルとして功を競わせていたんです。
今までは、それで軍氣が増し兵のテンション揚げる相乗効果となり、良い方向に働いてた。

「沖田畷の戦い」は家久が総大将。
北上した島津軍は4兄弟従兄弟の忠長が総大将。
ここ暫く義弘は大きな戦場で出番が無かったので、豊後侵攻に欣喜雀躍(キンキジャクヤク・躍り上がるほどウレピ~)していたに違いない。
それが、このままでは功績は家久軍のものになる~と地団駄フミフミで悔しがっていた。

もっとも家久自身は自軍の成果に決して満足してはいなかった。

臼杵城の大友宗麟には波動砲・・・じゃなかったフランキ砲「国崩し」を食らって近づけず、
栂牟礼(とがむれ)城では、弱冠18歳の佐伯惟定に家久得意の野戦で敗退し、城を遠巻きで眺めるだけで終わっている。

*****佐伯惟定*****
耳川の戦いで祖父と父が戦死して数え10歳で家督を継いだ。
それが8年後に島津家久を翻弄するほど立派な若武者に成長したんです~
佐伯家DNAがハイスペックな件~~( ̄∀ ̄*)ポワ~ン
******************

因みに豊後に留まることなく豊前へ遁走しちゃった大友義統だが、ダディ宗麟と連携して臼杵城で戦うって選択肢はあった。
だが協力し合うには絶望的に不仲な親子だったので、義統は天地がヒックリ返っても「父に助けを求める」などしない。
臼杵で親子協力して戦っていれば、義統に対する秀吉の心象は違ったんだけどなぁ ポリポリ(6 ̄・ ̄)
実の父より、頼りは豊前の叔父さんなんだもんなぁ~~~トホホ。゜゜(´□`。)°゜。
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家紋・相良
ロン様作成:相良家紋ロゴ

天正15(1587)年3月、豊臣秀吉が豊前入り「九州の役」が始まった
秀吉本軍が来るというのに敵地(豊後)に留まっていれば、どのような不測の事態が発生するか解らない。

戦の定石として撤退する事になったのだが、まず秀吉軍に対し島津義久は圧倒的に兵力差があり過ぎることから戦線の縮小を図った。
「戸次川の戦い」後に義久の弟・島津家久が占領していた豊後府内城から家久は後方の松尾城に撤退し、
代わって島津義弘が府内城に入って守備を固めていたんです。

だが豊臣秀長率いる秀長軍によって府内城が攻められるや、
圧倒的な兵力・物量の差を悟った島津義弘は3月15日の夜半に風雨にまぎれて海路で府内城を脱出。
弟の家久が守る松尾城に退却し合流しました( ̄ー ̄A 汗フキフキ

こっから先は相良が同行してる島津義弘の動きしか調べてません^^;ゴメン

同3月15日~島津義弘軍~豊後から日向へ退去することとなった
殿(しんがり~軍の最後尾で本隊を逃がすために踏みとどまって戦う危険な任務)は以下の5武将~
島津家より比志島国真、有川貞春、
相良家より内田伝右衛門・菱刈源兵衛・岡本頼氏~

*****比志島国真*****
比志島氏の庶流。
殿(しんがり)に選ばれるから武勇優れていたと思います。

話は飛ぶが人吉相良家の庶流で島津家臣になった相良氏があるんです。
人吉相良家へ島津から使者を派遣する時には、島津家臣相良さんが出向いてました。

その島津家臣相良の娘が、比志島家嫡流に嫁ぐんです~もちろん後年の話なんですけどね。
豊後撤退時に殿を務めた武将たちの主家が、縁組で関連するんだから歴史って面白いですね^^
********************

*****有川氏*****
後に伊勢氏と改名。
この伊勢(有川)氏から、薩摩藩初代藩主・島津忠恒の懐刀だった家老・伊勢貞昌が出ます。
****************

一番大事なのは、殿(しんがり)という軍の撤退で重要な役目に相良家臣が選ばれてるとこです
猛将・島津義弘が認める相良家の武勇を太文字で強調してみました\(≧▽≦)ノ~

とにかく島津軍は豊後で孤立し、周囲には誰もいなくなった・・・?
いや・・・いる・・・それまで道案内してくれてたのに、今は敵に転じた国人・地侍たちが・・・

正規の武士と地侍(半農でつ)と、どっちが強いか?となると個々の能力もあるんで一概には言えない。
ただ地侍のヤバイとこは、野に下って「ゲリラ化」することです。
落とし穴とか・馬を止めるために綱を張ってたりとか、草を結んで足を取られて転ぶようにしたりとか、
坂や崖に差し掛かると、頭上から岩を落としてくる。

こんな感じで有象無象のトラップを仕掛けて襲いかかってくるので、おちおち寝ることも出来やしない。
とにかく一刻も早く豊後を出て、島津勢力圏内の日向に入らなければならない。
てか、秀吉軍が来るってことで日向の国人も浮き足だってるから、日向も長居は出来ません~><;アウチ☆

3月20日~必死こいて死にもの狂いで走って、島津義弘は無事に日向に入った
島津義弘(O ̄∀ ̄)ノ「勇者たちよ」って殿(しんがり)を務めた5人の武将に【感状】を出した~
ところが、これで安心は出来ない。

日向入りしたのは、島津義弘本人&本軍のみだからです。
豊後侵攻が途中まで順調だったのが、撤退となったら裏目に出た。
サクサク落とした城には、当然ながら留守兵を配置する。

義弘軍(おそらく家久軍も)も、将兵が各城に分散してたんです~
そして攻め落とした城の留守兵の中にも、相良勢が残っていた~
バラバラになってしまった相良勢・・・果たして全員生きて戻れるのか?それは・またの話 by^-^sio

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