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府内を制圧し臼杵城まで迫った家久軍・・・豊後内部に侵攻していた分、撤退するのは容易ではなかったはずだ。
侵攻の際に不仲になった義弘と家久、二人が撤退の時にもギクシャクしてたのだろうか?
その後、宴で顔を会わせても一言も言葉を交わさなくなったそうだ。
天正15(1587)年3月15日~島津義弘軍が撤退開始~20日に日向へ入る
同年3月13日~島津家臣・伊集院三河守と相良家臣・犬童頼安が、島津家臣・赤塚真堅の助勢を得て阿蘇郡坂梨まで退去。
その際に頼安は数ヶ所傷を負う~
*****伊集院家*****
島津家支族、本家当主は伊集院忠棟で島津家筆頭家老。
伊集院本家から派生した庶家・分家・一族は、合わせて30数家で島津家臣の中で最大の勢力。
歴戦を生き延びた伊集院三河守は、後に阿蘇氏に悲劇をもたらす「梅北一揆」で散ることとなる。
また伊集院本家も、後に嫡流が断絶する。
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*****赤塚真堅*****
島津義弘に従って飯野へ移り、天正4(1576)年に小林の地頭代&足軽大将となった。
この人の経歴は変わってて・・・隠密(スパイ)活動もしてるんです~( ̄ko ̄)チイサナコエデ
「死して屍、拾う者なし」の世界。島津用語で「山潜り」~ ( ̄ko ̄)チイサナコエデ
肥後国皆越城(相良領)などへ忍び入り(義陽降伏前ネ)、諸所への工作員(エージェント)してたの ( ̄ko ̄)チイサナコエデ
ん~てことは、大河平隆次クンの遺族(皆越に嫁いでいた姉上)に接触したのは、ダブルオー赤塚かもですね~^^
仕事は裏も表も、allOKな頼もしい男が、犬童たちの助っ人してくれたんです。
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あっと、書き忘れ~伊集院三河守と犬童頼安は、豊後岡城の支城だった菅迫城在番だったんです。
位置は岡城の側なんで、現在の竹田市にありました。
秀長(秀吉本軍は豊前から入った)軍が来るということで、豊後勢(寝返りしてた大友家臣や国人たち)が(島津を)裏切ったと知り、
城を捨てて撤退することになったんです。(; ̄ ・ ̄)=3 フゥ
3月22日、豊後は切禿城在番の島津家臣・伊集院元巣と、相良家臣・深水宗芳の名代・深水弥五郎も湯浦まで退去。
敵に追いつかれ、二里(約8km)の間に数度の戦いがあり、深水弥五郎は討ち死にするも、島津・相良の勢は相良領まで退去を果たす。
*****伊集院元巣*****
元巣は入道号で元々は久信。伊集院庶家。横川地頭で義弘付き家老。
木崎原の戦いの戦後処理において、島津義弘の命で伊東・島津両軍の戦死者を弔う六地蔵塔を建ててます。
実は彼も後に「梅北一揆」に呼応してるんですが、再び島津に帰参してます^^
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?月?日~伊集院元巣は湯浦に留まらず、北里城(鹿児島県姶良郡湧水町)在番の新納忠元と合流。
新納(にいろ)も島津義弘と豊後に従軍してたんですが、撤退した後は日向(宮崎県)から北里城(鹿児島県)に入ってたようです。
日向入りは20日のはずですから、新納も殆ど休まず移動したことになります。
なにぶん撤退時で混乱してますので、記録に無い移動部分は脳内補完してます( ̄ー ̄A 汗フキフキ
3月25日~伊集院三河守と犬童頼安が入った阿蘇坂梨へも敵が押し寄せてくる
3月27日~北里城代・新納忠元と伊集院元巣が坂梨へ後詰(ごづめ=ヘルプ)に現れ、伊集院三河守と犬童頼安は無事に退去する
犬童頼安と当主・相良頼房は日向在留。
(多分バラバラだった相良勢が日向で集まったんだと思う)

ロン様作成:豊臣家紋ロゴ
4月1日~豊前・岩石城(秋月種実の支城)が秀吉本軍の攻撃で落城。大量の重火器による物量作戦に敗れる~
4月2日~筑前・秋月種実(島津の同盟相手)が一夜城食らって心が折れた~秀吉に降伏する~
4月5日~立花宗茂~秋月にて豊臣秀吉に拝謁
4月10日~龍造寺政家&鍋島直茂~高良山にて豊臣秀吉に拝謁~
4月11日~立花&鍋島&龍造寺~先鋒軍に編成~肥後へGO!
4月14日~先鋒軍、肥後まで進撃~
4月17日~日向「根白坂の戦い」で島津軍が秀長軍に敗れる!!
・・・・・・!!!・・・破竹の勢いだった島津家が敗北!
このままでは、島津家と共倒れになってしまう!
てか頼房と相良勢は未だ日向にいるんだよ~~~ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
相良家重臣・深水宗芳は、相良家が生き残る道を模索することになるのだが、それは・またの話 by^-^sio