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天正15(1587)年3月~秀吉が豊前入り「九州の役」本格スタート<( ̄^ ̄)/ビシ★
3月下旬~秀吉の弟・秀長軍が日向入り<( ̄^ ̄)/ビシ★~
4月2日~筑前・秋月種実が降伏
(豊前は前年12月に黒田如水らが制圧済)
4月10日~肥前・龍造寺家&鍋島家が関白に恭順~秀吉軍先鋒に編成される
4月17日~「根白坂の戦い(宮崎県児湯郡木城町)」で島津家が秀長軍に敗れる~
秀長軍の攻撃で松尾城が陥落~秀長軍は引き続き島津家臣の勇将・山田有信が守る高城を攻撃したが、高城は堅城で秀長軍は手こずってます。
義久は秀長軍に備えるために軍勢の殆どを日向都於郡城に結集していました。
ところが肥後口から秀吉本軍が南下してくると知り、
義久~アタヘ( ̄△ ̄:)ノミヽ(: ̄▽ ̄)ノフタ~
軍勢を二手に分けるより日向口の秀長軍と決戦する道を選択したんです。
「根白坂の戦い」・・・秀長軍8万VS島津軍3万~~~
倍の兵数に挑むのは島津の伝統なのか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

「根白坂の戦い」でも最前線で戦ってた島津義弘^^
で、冒頭で記したように島津軍が敗退・・・
4月?日~4兄弟・末弟の島津家久が秀長軍に降伏~Σ( ̄O ̄ノ)ノええっ~
管理人は家久の降伏は「根白坂の戦い」の後じゃないかなぁ~って思ってます。
とにかく、この家久の降伏は島津家にとって衝撃だったようです。
この島津軍3万と関白軍(秀吉軍+秀長軍=推定20万)との圧倒的な兵力差に、相良家重臣・深水宗芳は「寝返り」を決意した。
水俣城攻めでの島津軍は「公称10万」となってますが、これには水増しや去就定かでない肥後国人もカウントしてると思います。
北上の時の島津軍が3万でしたので国内に守備兵(極限まで動員すれば残るのは、傷病兵・老兵・女子供です)を置いていたとして~
「薩摩大隅本国から」「外征できる動員兵力は3万」それに各地から軍役に応じて動員される国人が増減する・・・といった感じだと思います。
そして「相良の寝返り」・・・一度、相良家は和睦(実質降伏)してるんです。
どこのサイト見ても「相良へツッコミ」は入れてないですが「島津から見れば」「相良の裏切り」になります。
義陽の代で3度(途中に入る和睦は仲介への義理で双方、守る気ゼロ)頼房の代で1度・・・通算4度の寝返りします^^;;
4月25日~深水宗芳が頼房の弟・長誠(藤千代クン)を連れ、八代敷の河内にて豊臣秀吉に拝褐。相良家は球磨を安堵される。
(藤千代クンは島津家への人質だったのですが、この頃は任を解かれて相良家へ戻ってたようです。)
全盛期・・・八代・葦北・球磨の3郡を領していた相良家。
島津への降伏で八代を失い、
今また、秀吉への降伏で葦北を失った・・・・だが、それでも残っただけマシなのだ。
島津へ味方した国人たちは数多(あまた)いる。
それらが全て生き残ったら、秀吉軍も秀長軍も従軍した武将への恩賞が不足・手詰まりになってしまうのだ。
生き残るためは「椅子取りゲーム」のように早い者勝ちなんです。
【速報】領地安堵~~~御家は存続でござる~~~【早馬】
日向に居た相良頼房と犬童頼安は4月27日に、これを聞く。
ところが相良家臣・菱刈源兵衛だけが、
「拙者は殿(相良頼房)の名代として島津家に留まる」と言いだしたΣ( ̄O ̄ノ)ノええっ~
この先、島津家に留まれば「どのような艱難辛苦」が待ち受けているか解らない。
いや、ここが「今生の別れ」になるか解らないのだ。
あえて死山血河の道を行こうとする、菱刈源兵衛の心中とは?
それは・またの話 by^-^sio