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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【相良頼房12_源兵衛が務めにてござる】

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天正15(1587)年4月25日~深水宗芳が頼房の弟・長誠(藤千代クン)を連れ八代敷の河内にて豊臣秀吉に拝褐し、相良家は球磨を安堵される。
(そのかわり葦北は失った)

4月27日~日向に居た相良頼房と犬童頼安に知らせが届く~

ところが相良家臣・菱刈源兵衛だけが「拙者は殿(相良頼房)の名代として島津家に留まる」と言いだしたΣ( ̄O ̄ノ)ノええっ~~

菱刈家は相良家と数代に亘って、幾重にも婚姻を重ねて固い同盟関係を築いた。
義陽の叔父「上村三兄弟の謀反」に、菱刈一族で加担した者がいたため、両家の間は一時期ギクシャクするものの、
天草5人衆の仲介で和睦し、大口城攻防戦で「共に島津を敵として」戦った。

菱刈家は一時期、島津と対等に近いほど拮抗していたが、それもそのはず。
その頃の島津は、分家が言う事聞かなくて「宗家単体」だったんです( ̄ー ̄A 汗フキフキ

やがて島津宗家の元に分家たちが糾合し、4兄弟たちが成長するようになると、菱刈氏は徐々に押され始める。
10にも及ぶ支城を落とされ、馬越城を失い、遂に力尽きて菱刈氏は大口城で降伏した。

降伏した時に「菱刈家は二つに別れた」
これは島津も承知してます。
大口城を接収した時に菱刈家の処遇が協議されるからです。

菱刈家の幼い当主は人質として島津家へ(筆頭家老・伊集院家預かり)
幼君の後見人で叔父の菱刈隆秋は、リベンジ目指して相良家臣となったんです。

人質の幼君は済し崩しに島津家臣となるだろうが、菱刈の家名は残せます。
たとえ幼君に万が一があっても「相良家臣系菱刈家」の家名が残るんです。

どんな形でも、バラバラになっても「家名は何としても残す」それが武家というものなのだ。
菱刈源兵衛は、菱刈の一族ですが幼君とも菱刈隆秋とも別系統・・・彼らの数代前に別れた庶家の出です^-^
(姓は菱刈だけど傍流ってことです)
家紋・相良
ロン様作成:相良家紋ロゴ

御家存続決定に湧く相良家中の中で、一人「島津に残る」と言う菱刈源兵衛の心底を、重臣・犬童頼安が問いただした。

菱刈源兵衛曰く
「御存知の通り昨年豊後入りの時分、島津兵庫頭(義弘のコトネ)様が御所望によって内田伝右衛門・岡本河内(頼氏)ならびに拙者、以上三人彼方へ罷り越し、所々の軍陣に粉骨を尽くしました。
然るに九州の残る処は秀吉公に属し、大名衆一人も残らず出仕あそばされ、天下一統の儀は程なく達成致しましょう。
とはいえ、先の約束の最中にある間、某一人が名代として島津家へ長く奉公致します」

島津義弘に「召し出された務め」を「義弘が帰っていいよ」と解放するまで、律儀に遂行すると言うのだ。
犬童・・唖然・・( ̄O ̄)島津家は関白に征伐されようとしているのに「筋を通す」にしても程があるだろう。

だが菱刈の決意は固かった。
自分は務めを果たしたいだけで主君・頼房への異心は無い。
その証として妻と5歳の男児(後の名は菱刈将監)を犬童頼安に預け球磨に留め置く、と言う。

頼房、頼安、内田、岡本「おーい、ひしかりぃぃ~一緒に球磨へ帰ろう~(OT▲T)ノ~
菱刈・・・( ̄  ̄)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。。。。m(_ _)m。。。・・~
脳内モードは「ビルマの竪琴」∴・…( ̄人 ̄)

その後の菱刈源兵衛は、島津義弘に従い各地を転戦「関ヶ原の戦い」にも従軍している。
関ヶ原の後に老いを迎えた菱刈源兵衛は相良家へ帰参 (ノ´▽`)ノただいまぁ~~ッ♪
元和年間に人吉で病を得て波乱の生涯を終えた。

ちなみに島津家に現地妻?との間に子を生し、島津家臣として長じた男子は大口城番頭を務めてます。
菱刈の血を引く者を大口城に配するとは、粋な人事だ(*´艸`).oo本人も優秀だったのだろぉ

九州の役後の相良家と島津家の外交関係を慮るに、菱刈源兵衛の果たした役割は地味ながら大きかったかもしれない。
関白が来る~~てことで「国人が次々離反する」のは「まぁ折り込み済」というか「いちいち一喜一憂してられない」
だが相手が相良家・・・となると(怒 ̄ ̄)ピキピキ~~と、根に持っても不思議では無い。

寝返り・裏切りは義陽の代から数えて通算4度目・・・島津家は幾度も煮え湯を飲まされてきた。
特に島津義弘は最前線にいただけに、相良家の動向には常に神経を尖らせてただろうし、
相良との同盟のために不幸に終わった政略結婚も(義陽の妹と)している。
そんな相良家から「約束は最後まで果たしたいm(_ _)m」と菱刈源兵衛が来たのだ。

世間の誰もが「隣の家が火事になったかのように」島津から離れようとしている時に、火の粉を恐れず駆けつけ来てくれた・・
人の一念というものは、その節所における進退でわかる、というが何とも鮮やかではないかメチャクチャ、カッコいいぞ菱刈源兵衛~
(管理人のエコヒイキ目線あり)

損得に左右されず、信義を重んじ、奢らず、武勇優れた勇者・・・まさに薩摩人推奨の武将像だ。
関ヶ原まで従軍させるとは、武勇もさることながら菱刈源兵衛の人柄そのものを、島津義弘は愛でていたのかもしれない。

島津家と相良家の外交関係に、大きなシコリが残らずに済んだのは「戦国の倣いで止む無し」というだけでなく、
「自ら死を選んだ義陽の覚悟」と、さらに「自らの進退を損得で判断しない・菱刈源兵衛の存在」が島津義弘の心を溶かした部分もあったのでは・・・
とロマンチックに終えたところで、次回「降伏の明暗」島津家はテンヤワンヤです~
それは・またの話 by^-^sio

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