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菱刈源兵衛が「務めを最後まで果たしたい」と、島津家に行ったのには、
島津家の人質となっている菱刈本家当主(幼君)が心配だったのもあっただろう。
後年に菱刈源兵衛が島津から相良へ帰参する時には、島津家臣となっていた菱刈本家の行く末を見守った上で人吉へ帰っている。
さて天正15(1587)年の相良頼房、犬童頼安、内田、岡本頼氏は、菱刈と別れて球磨へと戻った。
同5月8日~弟・家久に続き、島津義久が降伏する~
島津義久は剃髪し名を龍伯と改め、川内・泰平寺にいる秀吉の元を訪れ正式に降伏した。
同5月9日~豊臣秀吉、島津義久へ薩摩国を安堵する~
で、同じ日に相良頼房の名代として深水宗芳が、秀吉への御機嫌伺いの為に泰平寺を訪れてたんです( ̄ko ̄)チイサナコエデ
う~~~~~ん、まさか島津義久と出くわす・・・はずないか。
でも島津の消息くらいは、深水の耳に入ったかもだなぁ ポリポリ(6 ̄・ ̄)
深水が秀吉に拝謁した際、由巴法橋という者が、宗芳を歌道の達者と紹介し、共に連歌を発句しあった。
それに感心した秀吉により津奈木・水俣を与えるとの朱印状が出された。
と、記録にあるんだが実際に朱印状を与えたかは、ハッキリしていない。
深水は後に水俣の代官になるので、それと混同しちゃったのかも^^
とにかく、秀吉は深水宗芳のことが甚く気に入り、そのことが後に相良家のピンチを救うことになるんです。
同5月15日~島津義久の末娘・亀寿が人質として上洛することが決定する~
この時から、亀寿姫の苦難に満ちた人生が始まったと言える。

ロン様作成:島津家紋ロゴ
同5月22日~抵抗を続けていた島津義弘が降伏する~
義弘の長男・久保(後に亀寿と結婚する)が人質になる~
同5月26日~豊臣秀吉、島津義弘に大隅国を安堵する~
いっけん、温情があるような処置だが、弟の島津義弘に「新恩(大隅安堵)」を与えることによって、兄弟の分断を画策したんです。
秀吉の目論見は中り、島津家中は義久(長兄)派・義弘(次男)派に割れた。
同5月28日~相良頼房が深水宗芳を伴い、八代に着陣した秀吉に初拝褐~m(_ _)m
文字の色を変えんと主役が霞む,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
同5月27日~豊臣秀吉、島津家久に佐土原を安堵~
同6月5日~島津家久が41歳で病没する~
このあまりのタイミングに家久の死には毒殺説がある。
犯人として挙げられるのは、秀吉の弟・羽柴秀長です。
羽柴秀長は、豊臣秀吉のダークな部分を担ってた人物で、そういった方面で怪しまれている。
だが家久は一番先に関白に降伏しているのだ。
4兄弟の分断を図るならば、家久を生かした方が兄弟グダグダには効果的なはずです。
島津家では宗家の意向に歯向かった重臣・親族が「都合良く死ぬ」ことが、しばしばあり、
そのたびに「自害説」「病死説」「暗殺説」「毒殺説」が飛び交うヘビーな家なんです^^;
島津家久は病ニテ・・・という記述が残っており、それが病死説の根拠となっている。
家久の死後、佐土原の領地は嫡男の豊久が相続することとなった。
同6月13日~九州の国分け決定~
あぁ忙しい~アタヘ( ̄△ ̄:)ノミヽ(: ̄▽ ̄)ノフタ~どこが、どう決まったか書き切れない~
同6月15日~吉川元長(亡き元春の嫡男)40歳が日向で病没 ☆( ̄人 ̄)☆彡~~~
このころは、まだ羽柴秀長が日向にいたのよね~~~偶然・偶然ヾ(;  ̄▽)ゞオホホホホホ
この間に・・・・各武家では波乱万丈いろいろあるんだが、全部素っ飛ばして
同6月19日~伴天連追放令が発布~
圧倒的な物量・兵の動員能力だった関白軍。
関白軍の武将たちの甲冑は、金の装飾がほどこされ、陣羽織には高価な錦が織り込まれている。
その華やかさは九州の国人たちの戦闘意欲を削ぐのに充分だった。
秀吉は「既成事実」を積み上げ「豊臣政権」を確たるものしたかった。
そのため九州征伐を急いでいたんです。
秀吉は「九州征伐を終わらせるため」恭順する国人たちに「気前良く」「領地安堵の朱印状」をバラまいた。
国人たちは、「自分たちの領地は認められた」と信じていた。
結果を急いだ秀吉の辻褄のツケが、破綻するのに数か月を要しなかった・・・・
同8月13日・・・肥後国人一揆発生~
それは・またの話 by^-^sio