肥後戦国史で肥後国人一揆は外せない ( ー`дー´) キリッ
![家紋・豊臣]()
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今回の典拠「北肥戦誌」ただし多少(??)な部分があるので、可能な限り管理人のほうで補正します~
さてさっそくですが、ウィキペディアには「佐々成政・肥後時代」として
天正15年(1587年)の九州の役で功をあげたことを契機に、肥後一国を与えられた
(,,#゚Д゚):∴;'・,;`:ゴルァ!! ~球磨を安堵された相良家を幕下扱いすなぁ!!~
とはいえ、佐々成政本人が「肥後一国を与えられた」・・・と思っていたのは確かだろう。
天正15(1587)年6月2日に成政を「肥後国主」に任命する領地宛行状(楓軒文書簒)があるからです。
室町時代の支配感覚だと、守護職の下で各国人・小領主は「被官(家臣ではないが緩やかな従属関係にある)」になります。
国主たる佐々成政は、肥後国内の国人たちに号令をかける資格がある。
ところが室町感覚の厄介なところは、国人たちは国主に絶対服従しなきゃならない・・・
というほどの強い拘束力が無いことなんです。
むろん、その国主が往年の大内や大友のような実力があれば、大人しく良い子にしてます。
そうでない国主であれば、国人たちはソッポ向いて軍役・諸役には応じません。
気に入らない国主をスルーして幕府の御家人(直参)になる事も出来ます。
(国主の被官と幕府の御家人・・・立場が両属してもOKなの)
佐々は尾張人です。
肥後国人たちに「時代が変わった」という重大なニュアンスを口語で伝えるのは容易では無かったでしょう。
さらに不味いのが天下人・豊臣秀吉が「国人たちにも気前良く朱印状を下付した」ことです~
国人たちは天下人に領地を安堵された・・・つまり直参になった・・・と解釈した~
(; ̄ ・ ̄)=3 フゥ これが肥後じゃなく、スレっからし?の中央圏の武将だったらなぁ~~
人口の流入が激しい中央圏では、織田信長が兵農分離を推進したことで、国人の家臣化=室町体制感覚が抜けるのが速かった。
秀吉の「都合の良い時は太っ腹」なとこを見抜いて「朱印状を本物にする」ために「念押し」しただろうに。。( ̄  ̄)トオイメ。。
肥後は難治の国と言われ、ある意味「誰が治めても一揆発生」の確立が高い土地柄ではある。
とはいえ、佐々を国主に任命しておきながら、国人たちに秀吉が朱印状を発行してしまっては「不和の種」を撒くようなものだ。
秀吉は目障りな佐々成政を潰すつもりで肥後を与えた・・・という陰謀説もあるが、
秀吉は「九州の役を早く終わらせるため」に、朱印状を出した「だけ」なので、
そこから「一揆が勃発し佐々に責任とらせて処断する」ところまで「期待する」のはIF要素が多過ぎる。
豊臣秀吉に限らず「仕事の出来る男」というのは「あらゆる場面を想定し、可能な限り手段を講じるタイプ」であって「偶然の積み重ねに託したり」などしない。
佐々は「肥後国の戦国大名」になったつもりだった・・・~
肥後国人は「佐々を新しい守護職(服従する絶対的な義務・拘束力無し)だと思っていた~
肥後国人一揆は「時代の過渡期」にありがちな「意識の差」が産んだ悲劇ではないだろうか?

ロン様作成:秀吉家紋ロゴ
天正15(1587)年7月1日~佐々成政は国人らを隈本城へ召集した。
佐々成政が今回秀吉の代理として命を与える旨を申し渡すと共に、国中の仕置の事など談じれば、何れも異議無く了承した。
その集まりの中に隈部親永も出仕していたのだが、成政は「御辺の領地は800町の御朱印である。
これに検地を入れて引き渡そう^-^」と述べた。
佐々が並み居る国人たちの中で隈部を名指ししたのは、
隈部家が、かつての肥後守護職菊池家の三家老といわれた家で、肥後の有力国人領主、土豪領主のなかで最も有力な地位を占めていたからだろう。(領地も肥後国人の中でダントツ)
だが、この申し出は「絶対に受けることが出来ない」ものだった
佐々の「検地を受け入れ」「朱印状を押し頂いたら」隈部は佐々の家臣となることを承知したことになる~
ちなみに秀吉が佐々へ「慎重な領国運営を求めた」というのは、宛名の不自然さから近年疑問視されている。
秀吉は九州を「唐入りの前線基地」と捉えていた・・・
佐々が秀吉の構想を耳にしていたなら、むしろ検地は一番先にやらねばならなかったはずです。
隈部親永は不機嫌に「その儀は関白殿下の上意にも、菊池・山鹿・山本の三郡にての800町を所有する事に相違ないとされました。検地の儀は御免あれ」と返したが、成政は承諾しなかった。
隈部(怒)「我らが領地は先規の如しであれば、成政の支配などとは心得難い。
その上、国中の侍の中で我が領地だけ検地を受けるとは面目が立たぬ。
まして持領を何故他人に手に依り検地されねばならぬのか」と言い捨てて席を立つと、直に居城へ帰り引き籠った~
室町感覚なら隈部の反応は正しい・・・家臣でもないのに検地を受け入れる謂れが無い。
毛利輝元も自国内を検地する時に、国人の益田に対し「益田のとこは検地しないから心配しないでね」と気遣いしているほどだ。
それほど国人は誇り高く・独立自尊の意識が強く、優秀・有力国人であればあるほど扱いが難しい。
佐々は焦っていました。
一刻も早く検地を敢行し、キッチリした領国支配体制を確立しなければならない。
唐入りのためではありません。
既に大坂城が築城され、引き続き聚楽第が築城され完成間近。
旧織田系家臣であれば、それらの城下に屋敷を建てねば・・・と頭を巡らすことであろう。(金子(きんす)を用立てねば・・・)
スピードを要求されるのは、旧織田系家臣なら大なり小なり魔王に叩き込まれている。
催促されてからでは遅いのだ。
石高に応じた諸役負担分を弾き出して目録奏上し、関白殿下の覚え目出度くしなければならない。
だが肥後人である隈部ら国人たちには「佐々が何故に急ぐのか」「その感覚が理解できない」
焦る佐々は入府早々の土地で謀を為そうとするのだが それは・またの話 by^-^sio