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【河川から見た水ヶ江城・前篇】


唐突ですが「○○から見たシリーズ」の時間です,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
流れをぶった切り~~ちょっと西肥前続きで脳疲労~~
鍋島の殿がおられる東肥前が猛烈に恋しくなりました(爆

先日、ブログ友様とコメントの遣り取りの中で水ヶ江城の話になりました。
地理が苦手なシオです。
初期連載時は地形リサーチを後回ししてて、そのまんまだった~ヤベー( ̄ω ̄A;アセアセ
せっかくヒントを頂いたので、サボってた水ヶ江城について(自分が)忘れない内に記事にします^^




現在、水ヶ江は地名になってますが、築城前は槇村と呼ばれていました。
ブロ友様提供の二次史料『戦国大名閨閥事典』によると、

「康家は延徳3年(1491)頃、槇村に別館を造り水ヶ江館と称し、
永正2年(1505)には新館を加え、末子家兼と共にこの地に隠居して、龍造寺中興の基礎をつくった。」
剛忠(家兼)パパン・康家は生没年が不明な為、剛忠(家兼)が水ヶ江を遺産として継承した正確な年度は不明です。
どうやら家和(康家次男)家督相続時だけでなく、1505年までは存命だったみたい。
剛忠(家兼)の長命・子沢山は、パパン康家DNA譲りの生命力ですね(^ -)---☆Wink

館だった水ヶ江を城へとビフォーアフターしたのが、剛忠(家兼)です

西館の二館と中館・東館・本館の五館に分かれ、本館位置は現在の乾亨院(佐賀市中の館町7-11)


まずゴメンナサイ・゜・(PД`q。)

水ヶ江城周辺の地形を調べるのをサボってたんで城周囲は「単なる平坦な地」だと勘違いしてました(´;ω;`)ウッ
今後は重々気を付けますm(__)m
再びブロ友様提供、『史伝 鍋島直茂 「葉隠」の名将』(中西豪著 )より抜粋

前略 「水」は竜の連想、「江」は方言の「え」、家の謂(い)いであり、
水ガ江とは「竜の家」ほどの意味を持たせたものである。
なるほど~と思いました。
確か中西先生は地元の郷土史研究されてる方ですので、方言解釈は異論のないところだと思います。
龍造寺家は史料の中で、簡略に「龍家」と書かれてる事が結構あります。
それと掛けてるのもありそうだな~と^^

に対してブロ友様は、「水路の入り江の城~クリークを意識して付けられた呼称じゃないでしょうか」
と御意見を頂き、そういえば・・・と地形・河川調べたらブロ友様ビンゴです。

水ヶ江城もクリークを利用して築城された城でした


龍造寺の村中城、水ヶ江城、少弐氏の与賀城。
半径数百m以内に3つの城が集中したのは何故なのか?
それは自分の中で長い間の宿題でした。

保留にしたまま先へ先へと進んでたのですが、ちょっと答えらしきものが見えて来たので、
リサーチ期間の今のうちにまとめておきたいと思います。
結論から言うと、村中城、水ヶ江城、与賀城も、築城は地形的にココでなければならなかったのだが、



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