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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【相良頼房17_甲斐氏滅亡~肥後国人一揆4】

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佐々「検地させろ」
隈部「やなこったo( ̄ー ̄θ★ケリッ」
隈部の嫌がり具合を見てると、隠し田でもあったんじゃ・・・( ̄ko ̄)チイサナコエデ

邪推はさておき真面目に・・・肥後国人は秀吉から朱印状を貰い領地を安堵された。
江戸期風に言うと豊臣政権の直参です。

彼らは、肥後国主に任命された「佐々成政の与力」だと思ってたかもしれない。
与力は佐々の家臣ではありません(主君から譲り受けて家臣化することはある)。

彼らの領地は豊臣政権の代官地でもありませんし、佐々も代官ではありません。
従って佐々が国人たちの土地を検地する・・・

と言うのは国人の感覚では有り得ない。
せめて佐々が「秀吉から一筆貰っておけば」「隈部の反応は違ったかも」です。

隈部が「隠し田」を持っていれば「逆切れ一揆」で結果に変化は無くとも、
秀吉への事前根回しアリなので、佐々のみが処断される最悪の事態は回避できたかもしれません。
つまるところ「肥後国主」という呼称では、国人から見て佐々の権限が何処までなのか曖昧なんです。

秀吉が佐々にイジワルで国主にした・・・とは管理人は思いません。
九州という田舎の国人を従わせるためには「国主」という権威が効果的だと配慮したんじゃないでしょうか。

だが国人たちのプライドは秀吉(と佐々)の予想の斜め上を行き、
「佐々の検地なぞ受け入れる謂れは無い」と判断しちゃた_| ̄|○ il||li がくぅ

佐々が隈部を攻撃したために、国人たちは「明日は我が身」と緊張が走った。
そんな中で隈府の浪人・菊池香右衛門が御船城の甲斐宗立(甲斐宗運の息子)を動かそう!と会見した。

菊池「(大意)佐々は国中の所領を掠め取ろうとしてます(※国人たちの誤解です)
これを関白に訴えるために一揆しましょう!」

甲斐宗運の息子・宗立が「凡庸」と評価されるのは、この菊池の言葉に同意したことでも窺えます。
亡き宗運なら主家・阿蘇氏を第一義に考えるので、軽軽に一揆に加担したりはしないでしょう。
宗運に限らず名将の不敗神話というのは「時が熟すまで待つだけの胆力」があるからです。

腐っても鯛・・・失礼、息子でも甲斐(余計に失礼か?)

甲斐宗立が近隣に呼び掛けると、玉名の小代親泰、阿蘇一族の下城摂津守、北里三河守ら、今回所領から離された者らは、鬱憤を晴らす時がきたと悦び、方々より馳せ参じて来た。

って北肥戦誌にあるんだが、玉名の小代親泰は秀吉に召し出されて在大坂で一揆不参加なんです。
(だから潰されずに生き残った)
困ったことに大坂にいる小代親泰の名が、この後も北肥戦誌にチョコチョコ出てくる( ̄ー ̄A 汗フキフキ
どうやら小代氏は一枚岩では無く、親泰の意向に関係無く一族が一揆に参加してたようです。
原文を改変することになりますが、一部管理人補正するのを御了承下さいm(_ _)m

多勢となった一揆は8月12日、佐々成政が留守の隈本城を三方から囲み鬨の声を上げた。
城内は思いも寄らず周章狼狽する。

寄せ手(一揆側)は鉄砲を打ち掛けながら攻め入り、二の丸を焼き落としたが(隈本)城兵も矢玉を雨の如くに浴びせたため、それ以上は破り得なかった。

報告を受けた佐々成政は、まず佐々興左衛門を隈本城へ帰し、自分はそのまま山鹿城(隈部らが籠る)の押さえとなった。
だが佐々興左衛門は、内空閑鎮房(うちくが しげふさ~隈部親泰の兄弟)に途中で遮られて討ち死

佐々成政_| ̄|○ il||li がくぅ「あぅ~~興左衛門~ワシの甥っ子がぁ~~~」
佐々「おのれ~~一揆ども~~(* ̄▲ ̄*)凸 甥の仇だ!隈本へ帰って討つべし!!

(佐々は)8月13日の暮れから山鹿の東西に付城を構えて、人数800を残した上で、自らは15日に陣を引き払う。

その際、本道を通れば内空閑勢に遭うと思い、迂回して茶臼山へ登って隈本城へ入ろうとした。
一揆勢はこれを幸いと、茶臼山でこれを迎撃し6~7度戦う。

佐々勢が敗れかけた時、佐々方へ内通していた者小代(当主は在大坂で一族が一揆参加してたらしい)ら3名が、一揆を裏切って攻撃し始めた。

隈本城兵は内通の合図と気付き、城戸を開いて打って出ると、(佐々勢が)敵を三方から挟み撃ちにしたため、一揆は敗走する。

佐々成政はこれを追い立て、(一揆側)3900人が討ち取られた。
成政は勝ち鬨を上げて隈本城へ帰還した。
翌16日~佐々成政は甲斐の御船城を攻めるべく、家臣・松原五郎兵衛に軍勢を与えて差し向けた。
甲斐宗立は茶臼山の敗戦で痛手を負い、御船へ帰らず健軍社あたりに居たのだが、これを知って御船へ急行した処を松原勢に見つかった。
宗立は逃れ得ず、雑兵の手に掛かるよりはと、六嘉村の地蔵堂へ入り腹を切った。
家臣も共に腹を切ったか、或いは逃亡した為、御船はそのまま空地となった。

こうして甲斐家は滅んだ・・・( ̄  ̄)トオイメ。。
家紋・甲斐
ロン様作成:甲斐家紋ロゴ

茶臼山の戦いで痛手・・・というのが手足に深手を負って身動き出来なくなってたらしい。
だから自害と言っても、ちゃんと自力で出来たかは疑問で、家臣が介錯という形で命を断ったのかもしれない。

熊本県上益城郡嘉島町上六嘉2243に「六嘉の足手荒神(ろっかのあしでこうじん)」社(甲斐神社)がある。
傷を負った甲斐宗立が潜伏し、また切腹した・・・とされる場所だ。

社伝によると里人たちは厳しい追討の眼をくぐり、手足に深い傷を負った宗立に、手厚い看護の手を差し伸べた。
これに感動した宗立はその最後に臨んで、
「霊はこの地にとどまって、手足の病に悩むものあればこれをなおし、民草の守り神となろう」と言い残して果てた。
現斎主の祖先が、この遺言によって宗立の霊を祭り、あわせて父宗運を祭ったのが現在の甲斐神社の起こりだと言われている。

手足の病に霊験あり・・・。てことで、ご利益の願いを込めた足型、手型、平癒を喜び感謝を表す供え物、不要になったギブス、コルセット、松葉杖などが奉納されてます^^b

茶臼山では勝利した佐々軍だったが、隈部らが山鹿が籠城中な上に、隈部に同調した者により既に一揆は飛び火していた。

豊前~長野氏、
筑前~原田氏、麻生氏、宗像氏、
筑後~三池氏、蒲池氏、草野氏
肥前~草野氏、西郷氏、
肥後~赤星氏、和仁氏、永野氏、辺春氏

拡大する肥後国人一揆に関白・豊臣秀吉は威信にかけて討伐軍を編成するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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