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佐々「検地させろ」隈部「ヤダo( ̄ー ̄θ★ケリッ」で揉め、怒った隈部は城に引き籠って出仕拒否。
佐々は隈部と嫡男が不仲と知り嫡男へ「父を討ったら領地は安堵するぞ(* ̄ー ̄*)ニヤリ」と提案したのが逆効果。
息子たち「不和と言えど、子が父を討つなどできようか!こうなれば父子揃って一所にて討死すべし!」
まさに火に油~( ̄ー ̄A 汗フキフキ
天正15(1587)年7月24日~「ならば隈部を攻めん」と佐々成政は6000余騎を率いて、隈部親永の隈府城を攻めるべく取り掛かる。
隈部親永の家臣に多久大和守という者がいたのだが、突然に寝返り(理由不明)佐々勢を城内へ引き入れた。
このため城内は大混乱~~佐々勢に討ち負けて悉くが戦死した。
隈部親永は止む無く法体となって城外へ逃れた。
隈部の嫡男・親泰は佐々勢が父を攻めると知り、隈部親永の城の後方・玉祥寺原まで出陣したのだが、既に落城しており一戦に及ばずで、間に合わなかった。
そのまま山鹿へ引き返すと、一族や浪人を集めて兵糧を用意の上で城へ立て籠もった。
それを知った佐々成政は「しゃらくさい!ガキもまとめて始末しろ!」
あ、間違い~これは悪役テンプレセリフ~~
【楽屋裏】ヘ( ̄△ ̄:)ノミヽ(: ̄▽ ̄)ノ【佐々様・台本】
それを知った佐々成政は「急ぎこれも討つべし!」
と、8月7日に隈本城から出て山鹿へ着陣、まずは斥候を日輪寺山へ上げて城内を量らせ、さらに足軽に鉄砲を打ち掛けさせると、その日は取り敢えず隈本城へ戻った。
8月12日、佐々は家臣の佐々興左衛門成能、佐々右馬助らに兵3000を与え山鹿へ向かわせた。
佐々興左衛門らは三方から城攻めを開始。
佐々右馬助が谷を上がり攻め入ると、これに城兵は崩されかけたが、
隈部親泰自身が槍を縦横に突いて廻った為に城兵が気を立て直すと、状況は逆転。
佐々右馬助は討ち死に、寄せ手は200余人の犠牲を出して敗走。
寄せ手が佐々へ注進すると、佐々はまた兵3000を率いて山鹿へ向った。
これを知った有働兼元(隈部親泰の兄弟)は佐々と勝負致さんと、こちらも3000を率いて佐々陣へ打ち入る。
(。 ̄ ・ ̄)=3 ヒュ~♪ 佐々と同数で勝負しようだなんて肥後国人は鼻息荒いわぁ~
ところが今度は(有働勢が)進み過ぎた為に(深入りしすぎたらしい)打ち負け、山鹿へ引き退いた。
佐々はこれを追い掛け城を攻めたが、守りが堅固な為にその日は山鹿で夜を明かした。
佐々成政が隈部親子を攻めたと聞き知った国人らは「明日は我が身」と不安に駆られた。
そのとき隈府の浪人・菊池香右衛門が、隈部の事を聞いて、急ぎ御船の甲斐宗立(親英)に対面した。
*****甲斐宗立(親英)*****
亡き甲斐宗運の息子。
「こちらから島津に仕掛けるな」という甲斐の遺言無視したのは、この息子です^^;
父・宗運は苛烈すぎた・・・でもお蔭で阿蘇氏は、それまで無事だったんで一概に批判出来ない。
宗運は日向伊東氏に接近を試みた己の次男・三男・四男を誅殺。
父に反発し排除しようとした宗立(親英)までも宗運に殺されかけたが、家臣が必死で諌めて(嫡流が絶えちゃう)思いとどまった^^;
甲斐宗運毒殺説では、この殺されかけた宗立(親英)の妻が悲憤し、犯行を目論んだ(実行犯は宗立(親英)の娘)とされる。
主家・阿蘇氏が島津に敗れ、宗立(親英)も早々に島津に降伏~八代へ連行されてたのだが、
「九州の役」での戦後処理で御船の旧領を復活浮上~~<( ̄^ ̄)/
肥後国人一揆のころは御船城にいたんです。
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隈府の浪人・菊池香右衛門曰く
「佐々殿は、関白の上意と偽って国中の所領を掠め取って横領しようと考えているのでしょう。
ここに於いては一人も逃れられる侍はありますまい。
唇亡びて歯寒しとはこの事です。
これを関白へ訴える為にも、一揆を企て隈本城を攻めるべきです」と述べた。
あぁ・・・見事に噛み合ってない・・・(T0T)
肥後国人が生き残るには、佐々の検地を受け入れ家臣になるしかないんです。
だって九州国分けで肥後は佐々に与えられたんだから(相良除く)
甲斐宗立(親英)は菊池の意見に同意すると、近在の国人たちに激を飛ばした~
腐っても・・ゲホグホ失礼!・・・息子でも甲斐。
阿蘇氏筆頭家老オーラの残滓が、国人たちを勇み立たせたのだが、それは・またの話 by^-^sio