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豊臣秀吉の国人に対する基本姿勢(管理人まとめ)
一つ・本貫地を領すること能わず!( ̄0 ̄)6mビシ
たとえば肥前(佐賀県)の筑紫広門。
「九州の役」以前に島津サイドから大友サイドに乗り換え、島津軍北上では岩屋城で紹運と共に戦っている。
だが「九州の役」の論功行賞で、筑紫は本貫地は安堵されず、筑後に移封されている。
(もっとも筑紫広門には[人質になった折に島津に寝返った]説がある)
一つ・与力がイヤなら帰農だね!(^_-)☆
与力(主君から貸与・派遣される家臣)は、主に上方~関東で用いられており、他地域ではピンと来ない。
そのため「○○殿の家臣でもないのに、何故に○○殿の命に従い軍役や諸役を負担せねばならぬのだ」となる。
秀吉は各地の国人を活かす場合は、自分が選んだ大名の与力大名(1万石以上の場合)として配置するか、
万石以下の小領主の生き残る道としては、秀吉が選んだ大名の家臣団となること。
それがイヤなら大小の刀を捨てて鋤鍬(スキクワ)を取るか、髷を青々と剃り上げて墨色の衣を纏い諸国行脚でもするしかない。
一つ・事実関係必要無し!ウワサで一揆に成敗なぅ~
当主本人が加担してなくとも、一族に一揆参加者がいれば(ウワサの段階で)容赦無く改易、軽くて減封⇒移封。
特に周辺国人への影響力の強い神社系武家だと、200%以上の確率で木端微塵・徹底的に潰す。
方法としては、庶流当主の家督相続を認めず無嗣断絶で改易アボ~ン。
他には「一揆加担の罪(当主が参加・不参加は関係ない)で当主を処刑」し、嫡流を断絶・武家としての血脈を断つ。
上記3つを手法として複合的に用い、なんだかんだと口実をつけては国人を本貫地から引きはがし、領民との繋がりを断つ。
かろうじて生き残った国人領主は往時の勢いを失い、牙と爪は切られ、飼い猫(家臣)として鈴をつけられる。
なぜなら豊臣秀吉は「豊臣政権の御家人」というような鎌倉~室町風の制度を根底から変えて、未だかつてない「超強力な中央政権を完成」させようとしていたからだ。
旧支配体制・・・それら総て・・・いっさいの破壊・・・!!
(但し、自らの権威の根拠となる朝廷は残す)
流通革命、経済革命、戦国の誰も経験したことのない新しい中央政権!
ロン様作成:豊臣家紋ロゴ
前回からの続き・・・宇土城修復の手伝いを志岐鎮経(麟泉)天草種元に、思いっきり断られた小西行長。
小西は秀吉に速攻でチクっ・・ゲホグホ失礼・・・訴えた。
秀吉「左様な奴らは成敗だぎゃぁ」と下知
小西行長(大義名分ゲットだぜ (* ̄ー ̄*)ニヤリ)
秀吉の中央政権構想では、室町感覚の抜けない国人領主は邪魔な存在でしかない。
訴えさえすれば「即成敗」の言質がとれます。
「双方の言い分を聞く」・・・なんて手間をかけない。
ただ~し!「必ず秀吉の耳に入れること」「勝手に成敗はダメ」
万が一、成敗に失敗し一揆なんてことになったら「佐々成政と同じ切腹コース」の可能性大。
切腹はなくとも政治的失脚は免れがたい。
ちなみに黒田如水が国人・城井一族を抹殺した時は、事前に秀吉のOKもらってると言われています。
小西行長は秀吉に仕える中で、そのあたりの呼吸は心得てたでしょう。
小西は家臣・伊地知文太夫に3,000の兵を与え、まず志岐城を攻めるべく近くの袋浦(袋の津山=富岡城)へ差し向けた。
だが伊地知隊が船でそこへ上陸すると、志岐麟泉の夜襲キタ━━━━ヽ( ゚∀゚)ノ━━━━♪♪♪
伊地知文太夫以下3,000余騎は全員討死~~志岐麟泉は非戦闘員である舸子(水夫)・船頭らの命を援けて追い帰した。
前回・小西陰謀説を出したのに、伊地知隊が弱すぎる件~~_| ̄|○ il||li がくぅ~
後年、九州の関ヶ原・宇土城攻防戦で小西水軍が加藤水軍を撃破してるのは・・・ネタばれになるので今は秘密~
敗戦の全滅の報に小西狼狽~アタヘ( ̄△ ̄:)ノミヽ(: ̄▽ ̄)ノフタ
隈本の加藤清正へ援軍を乞うた。
清正は佐々平左衛門・瀧野讃岐守ら1,500余騎を宇土へ向かわせた。
※佐々平左衛門は名前で解るように元佐々成政家臣。
彼には「佐々成政に殉死した説」「加藤清正に仕えた説」があり、
本記事の出典である「北肥戦誌」では「清正に仕えた説」です。
また小西も手勢6,500を率い、総勢8,000が船で袋浦(袋の津山)へと渡る。
志岐麟泉は干潟まで出て戦おうとするが、
小西は「油断できない~伊地知の二の舞になる」すぐには戦を仕掛けなかった。
すると志岐麟泉の勢から若武者共が出てきて「京衆京衆なぜ鑓せぬぞ♪かふすの皮のすもりか♪( ̄∀ ̄)6mプギャー」
と悪口を拍子に乗せて囃し立てる
あぅ~方言+古語+隠語で手強い~~_| ̄|○ il||li がくぅ
「かふす」というのは正月飾りに使う橙(ダイダイ)のことらしいです。
飾りだから食用じゃないわけで、その皮だから⇒⇒⇒「見かけ倒しの役立たず野郎」ってとこでしょうか^^b
隈本からの援軍は、これを堪えかねた。
旧佐々成政家臣がいますからね~一揆で改易の悔しさが脳内フィードバック⇒沸点ブチ切れ~
槍を揃えて突き掛かり始めた。
小西勢もこれを見て「Σ( ̄O ̄ノ)ノええっ!ちょ、ぉまっ・・仕方ない~」とこれに続く。
敵味方入り乱れて混戦~両陣に死傷者が多く出ると、城兵は志岐城へ引き退いた。
(富岡城と志岐城は近所で互いに遠望できます)
このときの小西・加藤の討死は将27人、逆に討ち取った首級は21だったそうです。
寄せ手(小西+加藤援軍)は志岐城攻めを開始。
城には志岐麟泉の手勢2,000余、天草よりの援兵の侍20騎、弓・鉄砲300挺が詰め、合力して防戦。
志岐城は、東は深谷で水が流れ、南は高山で林木が生い茂り、西北は人家に連なり、更に海に囲まれ、西岸は屏風のように岩石の壁となった要害の地。
生半可な事では落ちない。
小西・加藤隊の元へ、更なる援軍が来るのだが、それは・またの話 by^-^sio