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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【相良頼房22_清正出陣!~天草国人一揆3】

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ネット上では清正と小西が不仲になったのは「天草一揆」がキッカケだ・・と、見かける。
だが今回出典の「北肥戦誌」では言い争いになったような記述はなく、ネットにありがちな風聞だったかもしれない。

ただし「一揆の終わらせ方」で両者の意見が違ったのは確か。
小西領である肥後・八代郡で、旧相良家臣(八代衆)が清正幕下という「変則的飛び地」状態だったことが重なり、
じょじょに関係悪化してたところに「朝鮮の役」での「小西が抜け駆け一番乗り」だ。
超負けず嫌いの清正は小西を赦さず「関係修復不能」になったと思う。

志岐城の目と鼻の先にあった富岡城。(城郭から互いを遠望できる)
長年、寺沢広高が江戸初期築城~と、なっていたのだが「どうやら築500年以上らしい」ってことが判明した。
(つまり寺沢は築城ではなく改築^^b)
じゃ天草国人一揆の時は?となると、そこまでは解ってない。

最初に小西が派兵した伊地知隊は、志岐麟泉の夜襲に遭う。
私見だが、それは富岡兵と志岐兵の挟み撃ちだったかもです。
それならば3000もの兵が全滅・大将の伊地知討死・・・というのが頷けます。

その後、志岐城は天草勢の援軍とともに籠城するのだが、加藤清正の援軍到着で富岡勢も志岐城に収容されたんじゃないかなぁ~と推測(素人の辻褄合わせ)してました^^b

要害の地である志岐城は容易に落ちず、小西勢・加藤勢も手こずった。
そこへ松浦久信・有馬政純・大村嘉前・波多親・五島(宇久)盛家ら、更に龍造寺家より【成富家為】の500余人が寄せ手の援軍に入る
(成富家為ってなってるけど、成冨茂安のことです。)

小西行長は、志岐麟泉の縁者である有馬政純を通して
「城を降って和睦すれば関白殿下に執り成す」と伝える。

志岐と小西は同じキリシタンだから、便宜を図るのは本気だったかもです^^
とにかく志岐麟泉が「(-_-)ゞ゛ウーム」と 思案する間、合戦は行われなかった。

すると前回、志岐勢の囃子歌の仕返しとばかりに、今度は寄せ手が囃子歌で城方を嘲笑。
「城衆城衆なぜ切って出ぬぞ♪志岐しや♪志岐しや♪へのこしきしや♪( ̄∀ ̄)6mプギャー」

これも方言で古語で隠語なんだけど・・・「へのこ」って殿方のナニのことなんです(/▽*\)キャ
だから・・・その・・・「出て来やがれ、このヘタレ、チ○コ野郎~」って感じ^^;

10月下旬~隈本城に居た加藤清正は、志岐城の堅固さに小西行長が和平に及ぼうとしていると聞いた。
清正「ならばワシが馳せ参じて打ち崩すべし」
10月29日~手勢1万余騎を率いて、志岐浦へ船を着ける。

清正は志岐麟泉へ「主計頭(かずえのかみ=清正)が、和談を調えんが為こちらへ着船します」と使いを出した。
志岐麟泉は家臣10余人と海辺へ出迎える。

すると清正は志岐の湊へ着くなり鉄砲を放ってその内の14人を打ち倒し、
城へ向って禿山へ陣を布き【斎藤伊豆守】らに1500を与えて小西勢へ加勢させた。

清正に騙し討ちされた志岐麟泉は無事です( ̄ー ̄A 汗フキフキ
清正「武士のウソは武略でござるな」 ( ゚Д゚)y─┛~~

斎藤伊豆守~~加藤家・弐番備頭・知行5002石余。
なんと春日局の弟です~フルネームは斎藤利宗~元明智光秀家臣(* ̄・ ̄*)Vブイ
年は伊達政宗や立花宗茂と同じ1567年産まれ。

山崎の戦いのゴタゴタ時に「秀吉の命を鉄砲で狙った」という疑いで細川忠興預かりでした。
その後に赦免され加藤清正に仕えました。
加藤家改易後は、3代将軍家光に旗本として取り立てられてます。

清正着陣、これが天草の本渡城へ伝わると、天草種元は志岐勢の後詰(援軍)として、天草主水助に700を与えて差し向けた。
天草主水は甲浦から比々尾へ陣を布いて小西勢と対陣。
また天草氏・本渡城に木山弾正という無双の剛の者がいたが、これも志岐を救うべく弓・鉄砲の500人を率いて、禿山の上の山に陣を取り加藤勢と相対した。

木山弾正・・・元肥後益城の城主、島津の肥後侵攻で城を失った後は、天草種元の客将として本渡城に留まっていた。
別名「どもりの弾正」
次回清正VS木山弾正~「一騎打ち!」 それは・またの話 by^-^sio

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