前回の一騎打ちで対決予感O(▽ ̄*O)(O* ̄▽)Oワクワクの引きで、次回に続く・・としましたが、
実は出展元の「北肥戦誌」では、描写が非常にクール^^;
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木山弾正の大将同士・一騎打ちの求めに、加藤清正は十文字槍を掴んで応じると、槍を突き入れ弾正の高股を突き通した。
木山「ぐはぁ」
(木山の膝が崩れたのを見て)後に続く木山家臣が駆け寄るが、清正が再び突き伏せると、
清正側にあった浪人・阿波鳴門という者が木山の首を取る。
大将首をとった大手柄の阿波鳴門だったが、流れ矢に当たり戦死する。
木山家臣は清正を逃がすまいと一斉に切り掛かったが、清正の旗本衆に悉く突き崩され、大将を失った木山勢は敗走した。
木山VS加藤清正は辰の刻(AM8頃)に始まり、午の刻(PM14頃)に終わる。
清正方が討ち取った首級460余、味方の戦死は士分11人・雑兵279人。
清正はこれら首級を海辺に並べたが、このとき一揆勢が清正の乗船を奪おうとするのを、加勢の龍造寺勢(成冨茂安勢)が追い払った。
ちなみに成冨さんは、感謝した清正から感状を貰ってます^^b
天草からの援軍である木山勢は敗退したが、志岐城の志岐麟泉は籠城続行。
かといって先行きのアテがあるわけじゃない。ヤバイ感が漂うなかに助け舟を出す者あり。
それは猛将・島津義弘(* ̄・ ̄*)Vブイ
義弘「麟泉は中務大輔(亡き薩州家の島津義虎のこと)の婿にて某にとっても縁者に候。
(『本藩人物誌』では、島津義虎の娘婿・親重が麟泉の次男(養嗣子とも)
(島津義虎は義弘の兄・義久の娘が正室で義弘から見て、義理の甥になる)
願わくば御赦免を賜り、さすればすぐさま下城させますm(_ _)m」と求めて、これが秀吉に許された。
11月10日~志岐麟泉は有馬修理大夫政純を頼って下城、小西行長へ城を明け渡した。
※本渡市教育委員会刊『天草の歴史』では、麟泉は出水へ逃れ、
養嗣子の親重は有馬晴純の実子なので有馬へ戻った後、加藤清正へ仕えた。
後の加藤家改易に伴い、親重の子・親昌は母方の縁を頼り島津家臣となったとある。
島津義弘画像
11月20日~清正と行長は天草種元の本渡城を討つべく、有馬・大村・平戸・五島を合わせた25000余人で向かった。
翌21日より竹束で仕寄りを形成しつつ、夜毎に少しずつ攻め近付く|竹束|゚Д゚)))コソーリ!!!!
24日~鉄砲を撃ち方始め~~。
同日・未の刻(PM14頃)~天草種元とその子・太郎次郎は、数百人を率いて城から打って出、激しく戦った後に無事、城へと戻った。
翌25日~寄せ手が城内へ入り、二の丸を奪った。
城兵700余人が討ち死に、種元は矢倉へ上がって妻子を斬り殺すと、自身も切腹して果てた。
これに譜代の家臣21人が後を追って切腹、残りは悉く逃げ散った。
清正勢にも570余人の戦死者が出、他の小西や有馬らの勢も討死が多かった。
でもって、北肥戦誌には記載無しですが、地元に残る伝承では本渡城に木山弾正の妻・お京の方がいたとされています。
彼女にまつわる秘話・延慶寺(えんけいじ)の兜梅~興味のある方は検索してみてください^^
さて、本渡市教育委員会刊『天草の歴史』によると、天草(一族の久種だけが別の場所にいたらしく生き残った)に続いて大矢野・栖本・上津浦も降伏。
その四氏は領地を召し上げられ、小西の家臣に組み入れられた。
その後に行長は、同じ豪商出身で切支丹の家臣「ビンセンゾ・兵右衛門」を志岐に置き、本渡や上津浦にも切支丹武士を配置。
この翌年、上津浦氏も信者となり3,500人が領主に続いて洗礼を受けたとしている。
さらに朝鮮出兵の際、行長はこの天草・栖本・大矢野のメンバーで構成された水軍で渡海。
これに松浦・大村・有馬、対馬の宗・五島といった水軍の得手が加わったことで、一番乗りに繋がった。
小西(旧天草国人)水軍の大島子村の益田日向兵衛、町山口村の大谷諸兵衛らが、水夫の統率者として従軍し功があったとあります。
天草国人一揆は鎮圧された。
ウィキペディアによると天草の石高は1万石とある。
(天正16年の時点で、大矢野氏は1,755石、栖本氏は850石、天草氏は一族と併せて3,000石ほど)
太閤検地以前の検地は、指出(さしだし)検地と呼ばれ・・・早い話が領主の自己申告。
さらに内容も米の収穫からの算定のみで、他の穀物の収穫や運上金などの別途税収はカウントされていない。
+プラス豊臣政権以前は石高制ではなく、貫高(現金決済)制な上に秤の基準数値が各地でバラバラ~という感じなので極めて不正確だった。
慶長13(1608)年の検地で、天草郡は21,616石とされる。
だが米以外の収入を入れても、果たして倍になるものなのだろうか。
いまさらだが天草郡は大小の島からなる。
季候がどれほど温暖であっても、島である以上は風雨による塩害が避けられず、耕地に出来るのは内陸部に限定されるだろう。
そもそも天草郡は山地が多く耕地にできる場所は少なかった。こりゃ2万も怪しい(--;
仮に21000石あったとして、それが江戸期には更に4万2千石だ。
(領主・寺沢広高が田畑収穫で37000←絶対無理+漁獲・茶・桑・塩など別途歳入5000とした・・・)
とてもじゃないが租税率のアップに生産力が追い付かない。
一揆(島原の乱)が起きるはずだ。
離島の歴史というのは、悲惨・悲哀がつきまとう。
本島に近い遠いは関係ない。
さて、個人的な拘りで5話に至るまで国人一揆に御付き合い頂き感謝に堪えませんm(_ _)m
次回より、我らが相良家に戻ります。
御家騒動がキナ臭くなってきますよ~それは・またの話 by^-^sio