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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【相良頼房26_功臣の死】

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深水宗芳が犬童頼安の嫡男・頼兄を養子にしようとしたのは、深水自身の保身だったかもしれない。
相良家御家存続の大功労者の深水だが、その時に重大な越権行為をしているからだ。
仮の話だが「秀吉が相良家に含むところがあれば」「深水の行動を利用して」「相良家を分断していたかも」しれないんです。

深水の越権行為とは?まず(* ̄・ ̄*)b島津への不義・・・島津から関白へ乗り換えたのは深水の独断です。
当主の頼房は日向国にいたので、連絡してたんじゃ時期を逸する・間に合わない~~というのは解る。

だが、あくまでも結果オーライなだけで、タイミングが悪ければ(島津にバレるなど)日向にいる頼房の身に危難が及んだかもしれないのだ。

これは序の口で、序の前も序二段もないが、一番問題な行動~~
頼房弟・藤千代クンを「頼房に無断で」「頼房の前に」「秀吉に拝謁させていること」です。
相良家存続を訴えるためには「相良家の誠意(人質)」が必要なのは解る。手ぶらでは行けない。

だがそれが藤千代クンである必要があっただろうか?
島津の筆頭家老・伊集院忠棟は、自分自身を人質としているし、
後年の関ヶ原の戦いで前田家が生母を江戸に人質に出したのは有名だ。

普通の生母ならトウが立ってるが、若年の頼房ママンなら秀吉が喜びそうな熟・・・ゲホグホ失礼!
とにかく秀吉の女好きは知れ渡ってて、女性を人質として差し出す国人は少なくなかったんです。

源平合戦・南北朝の戦い・戦国時代・関ヶ原・・・大きな政変・戦になると庶流が嫡流を凌いだり、弟が兄を差し置いて当主になる「逆転劇」が、しばしば見られる。
相良家そのものも元を糺せば庶流で、南北朝で嫡流を凌ぎ、戦国時代で嫡流を倒した歴史がある。
関ヶ原以降に伊達政宗が「豊臣家に近すぎる」という理由で、長男を家督から外し次男を跡継ぎにした話も知ってる人は多いだろう。
(おかげで親子関係の修復に時間を要した)

吉川家でも元春(父)・元長(嫡男)が相次いで亡くなり「家督をどうする?」って話になった。
他家に養子に出してた次男を戻そうか・・・という話が出た時に小早川隆景が言った。
小早川「家督は次郎五郎(広家)だ、関白殿下が見知った者を当主にすべき(大意)」この発言で末弟の広家が当主になった。

管理人が言わんとすることが解るでしょうか?
万が一「頼房が島津加担の罪は勘弁ならぬ」となったら、弟・藤千代を当主に戴き御家存続を願い出るm(_ _)m
深水宗芳が藤千代クンを伴ったのは、そこまで考えたからだ・・・と思います。

逆に「もし秀吉が相良家の力を削ぐこと」を考えたなら、「藤千代クンを当主にして球磨を安堵」します。
さらに、頼房を処断(強制隠居など)しないまでも、日向か筑後あたりに飛ばして与力大名にしてしまう。
これで完全にノックアウト。相良は頼房派と藤千代派に分裂し二度と和合することはない。

だが秀吉は島津ほど相良家を危険視してはおらず、自ら関白の下知に従う姿勢を見せたことを喜んだ。
何より目の前の深水宗芳を気に入ってしまったことが、深水にとって有難くも気苦労な事態になる。

深水を気に入った秀吉は、蔵入地(=直轄地)の代官とした。
ウィキペディアには簡素に「水俣の代官」としか書いてない(ほんと大雑把なんだから!)
これでは相良を知らない人や土地勘無い人は、現代の水俣市規模を連想してしまう^^;

水俣だけじゃないんです。葦北郡全部・・・深水は郡代官だったの。
城代も2つ兼務。水俣城と津奈木(つなぎ)城です。
葦北郡の石高は慶長9年で17000余で、相良家の球磨郡は約2万。

天正年間の石高は解らなかったが、主君である頼房と深水の代官地に大差がない。
代官ともなれば任地に赴かねばならず(城代だし)、都度主君へ「行ってきまつm(_ _)m」挨拶しただろう。
葦北は相良領だったのに・・・|次の間/襖 |_T)じぃ・・・by相良家臣

深水は和歌が堪能・・・つまり空気読む能力スペックが高いから、すごい気まずかっただろうなぁ。

年若い主君・頼房は(この時点では)深水にどうこうは無いと思う。
深水は島津義久との関係融和に努めてたし、深水の独断専行のお蔭で御家存続だし、肥後一揆のチョンボもフォローしてもらったし・・・・・それでなくとも祖父の代からの功臣だから頭が上がらない。

功績が大きいのは悪くない、だが秀吉から貰う見返りが大きすぎて、非常にバランスが悪い。
藤千代クンを当主うんぬんは管理人の推測で、そんな意図は深水に無かったかもしれない。

だが管理人が勘ぐったように、相良家臣が勘ぐる可能性はある。
もし深水が「秀吉死去~関ヶ原まで」存命していたら、間違いなく失脚していたことだろう。

天正18(1590)年8月21日・・・深水宗芳死去・享年59歳・・それは・またの話 by^-^sio

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