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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【相良頼房31_朝鮮の役3・戦地】

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朝鮮の役の当初の目的は「中国(当時は明王朝末期)をゲッツするぜ!」だった。
そこで古来の呼称を用いて「唐入り」と呼ばれていました。
https://history.blogmura.com/his_sengoku/ にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代

秀吉は途上にある朝鮮国に道案内をさせようとしたのですが、明の冊封国(さくほうこく・形式上の家臣)である朝鮮が従うはずがなく、明国より先に朝鮮を征伐する~~ってことになった。

中国と冊封国(自分らが世界の中心⇒上目線の中国と貿易をしたければ、冊封国にならなければならない)の関係は、室町時代の守護職と国人の関係に似ています。
つまり「配下になるし」「服属もする」けど「被官だから家臣じゃない」という状態。

冊封国たちは、中国を文明の中心&兄貴分として立て、その威徳に服するけど、あくまで独立した国家なんです。(西洋人には解りづらい発想らしい)
ですが常日頃、兄貴分・大人(たいじん)として敬われている以上、冊封国がピンチの時に明(他の王朝も)は、知らんぷりが出来ない。
結果、明国は朝鮮へ援軍を出すことになるんです。

さて肝心の「秀吉の唐入り構想」ですが、何やら雲を掴むような話。
広大な中国の国土全てを(他国が)長期間に亘り占領・統治は不可能に近いと思います。

ただし、戦闘に勝つだけなら、勝てるでしょう。
なにせ当時の日本兵の精強さは、世界でもトップクラス。
国産火縄銃も生産量は世界トップクラス、性能が良いメイドインジャパンは、遠くオスマントルコまで輸出されていました。

豊臣政権から江戸時代まで、為政者達は「リア充・戦闘民族」だった日本人から「爪と牙」を抜くのに、100年近い年月を要しています。
ですから「唐入り」は、戦国スーパーサイヤ人?達の「ガス抜き(浪人対策)」という説もあるほどです。
はた迷惑な「秀吉の外征」は、既に国家として求心力を失いつつあった明王朝の寿命を、さらに縮めました。

加藤と小西は揉めつつも、日本軍は順調に勝ち進み文禄元年(1592)年6月15日には平壌を占拠する。
が、勝ち進みすぎたのが逆効果で、補給困難なほど前線が伸びきってしまい、そこから苦労する羽目になる。
兵站が下手なのは日本人の先天的な欠点なんだろうか^^;

とにかく我らが相良も、ガンガン進軍した。
まるで「狩りをする時のように、山といわず川といわず押し進んだ」そうです^^b
山の中で戦闘することもあれば、あ、それと野宿はいつものことだから!

あぅ~~~6月だってのに雪がまだあるなんてアンビリバボー!(朝鮮は北海道より寒い)
とてもじゃないけど、ほんとに我慢できるもんじゃないけど、でも頑張って進軍したぉ!

6月には晋州を攻撃したところ、晋州城・牧司城は良く持ち堪えたそうだ。
日本軍の攻撃に対して朝鮮側は半弓で反撃し、慣れない敵の武器に少なからず日本軍は手痛い目にあう。
その後、日本側は大石を以って打ち崩しにかかったが、多くの死傷者が出た。

主君・相良頼房は大将ながら真っ先に進んだ。
頼房は、梨子打鳥帽子の真ん中を石で打たれたが、兜が丈夫だったんで無事 (* ̄・ ̄*)Vブイ
ちなみに騎馬で参戦です。

で、途中で足を射られて負傷したけど、幸い浅手だったので、本人ケロリと(やせ我慢か、夢中で痛みを感じなかったのかは不明)少しも構わず城攻めを続行。
即時に城を乗っ取ることができたそうな。

最前線に一度しか出たことのない父・義陽とは違い、次男坊は猛将タイプだったようだ。

木上地頭の久保田大蔵は、紺糸の鎧に白毛の兜を身につけて縦横に駆け巡ってハッスル!
が、朝鮮兵が城内から見下ろして半弓で打ちかけられ、その場で戦死。
同じく蓑田助七郎・深水弥助・深水小兵衛も戦死した。

その後、城乗りに成功し、敵大将の牧使判官は相良家臣・深水新左衛門が討ち取る!<( ̄^ ̄)/ビシ★
それからさらに軍を進めること80日、高麗の都(ソウル)に進軍した。

後日、戦死した久保田大蔵が着用していた鎧を調べてみたが、子札(鎧の材料の小さい板)の厚い立派な具足で、
相良「これだけ丈夫なのに、矢に当たって戦死したとは不思議だ」「どれどれ?」
ってことで、皆が着用してみたが、少しも矢の貫ける隙間がない無い。ホエ?(´д` ) ホエ?(´д`) ホエ?( ´д`) ホエ?
いろいろ確かめたところ、シコロ(錣)の外側、ごく僅かな隙間を矢が貫いた・・・らしい。

眉間に鉄砲がジャストミートして戦死した武将もいるが、弓で隙間ジャストミートもあるんだなぁ~~( ̄ー ̄A 汗フキフキ

一方、深水平内左衛門なる者は裸同然で出陣し、敵から雨のように半弓で射掛けられながら一つも当たらず無事。
なんか「傷だらけ井伊直政」と「無傷の本多忠勝」を思い出す話^^;
筆者の梅山さんも「天と地ほどの差」と二人の運・不運を書いている。

日本軍は80日ほどで高麗の都(ソウル)に押し寄せたが、市民は家財道具を残したまま逃げて、山中に隠れてしまった。
逃げ遅れたのか、家を離れがたかったのか、居残っていた者は全て撫で斬りにした・・・とある。
戦になれば、罪のない一般市民は少なからず巻き添えを食う。綺麗な戦などありはしない。
とはいうものの「撫で斬り」の記述は、どの戦で見ても凹みます。。。(ω・`))シュン

朝鮮国王は明の国境のオランカイに逃げたので、日本軍はさらに進んで行き20日ほどでオランカイ境の安辺群(現在は北朝鮮領内)にいたった。

ちなみに相良家は加藤主計頭清正の組に所属だったので、陣中加藤清正と一緒だった。
清正は、「この安辺は高麗国の果てである。ここは相良軍が在番されたい。私は少し都に近いところに在番する」
と言って、安辺より三日路都のほうに移った。

だが文禄元年(1592)年の師走(12月)に、朝鮮人の蜂起が始まったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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