全ての日本人・・ひいてはアジアの運命が動き出す。。。。
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文禄元年(1592)1月?日~後陽成天皇が二度目の聚楽第行幸
秀吉から諸大名へ~「3月朔日(1日)に(朝鮮国出陣の)諸大名は(それぞれの)地元を出発し、名護屋へ下向せよ」との命令が出る
3月6日~豊臣秀吉が大坂を出陣~4月5日に名護屋へ着陣
3月17日~先発隊が名護屋へ向かう・一番隊は前田利家
3月26日~豊臣軍本隊3万が大坂を出陣
3月26日寅の刻(am4:00)~宮内少輔頼房(相良頼房)が、朝鮮国出陣のため球磨を出発、御供の軍勢は760余人
時に相良頼房・19歳、相良左馬介(深水頼蔵)は32歳(or28歳)、相良兵部(犬童頼兄)は25歳。
「親子鷹」で紹介した頼兄に対する休矣パパンの訓諭は、この出発の前にしたらしい。
もっとも話の中身には別バージョンもあります。
別バージョンでは獺野原(うそのばる)の戦い部分が、違う人の批判だったり、
義滋の喩えが晴広だったりしてます。
・・・・別バージョンじゃなくて、ほんとに何パターンも頼兄に語ってたりして∴・,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
>其の方が若輩の故に語らなかった
なんて神妙な顔?して、懇々と訓諭する休矣パパンだけど、当時の武将って酒席だのなんので「武勇自慢」はウザいくらい絶対する。
現代の上司が居酒屋で絡んで来るより超ウザ濃い。
休矣パパンが自慢しない謙虚無口タイプでも、他のオッサン連中から「獺野原(うそのばる)の戦い」は耳タコ状態だったと思うのよね。
頼兄がパパンの訓諭を守れなかったのは、生来の気質だけでなく話の中身が聞き飽きてたんじゃ・・・,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!!
ま、順当に考えて数パターンある逸話って、ほんとに説諭したかどうかすら怪しいんですけどね^^;
逸話って軍記物出典が多いから、史実の味付みたいなもんですな~~( ゚Д゚)y─┛~~
ちなみに相良の出発にも別説があって、それだと3月1日 に出立、8日に名護屋着陣、12日に出船、となってます^^
名護屋の御陣所の御船数は8700余艘で、雑兵は合わせて31万7985人の人数である
南藤蔓綿録より
今更だけど当時の記録に顔文字はない^^;
4月12日、段々に船を出し、石火矢を放懸け、鯨波をあげ(矢のごとく高波をあげて)、
船の綱をとき数千艘の帆柱を押し立て帆をあげて、鬨の声は海上に響き、天地を動かすほどである。
当浦を遙かに出て、前後を見渡すと多くの大船・小船は家紋をつけ、幕を張り巡らし、思い思いの旗指物を飾り立てている様子は、
(桜で有名な)吉野山をこの浦に移し(紅葉で有名な)立田の錦を海にさっと流しいれたようで、
実際に心が雲になり、故郷のことも忘れてしまうほどである。
筆者の梅山さんは詩人でつね ( ̄∀ ̄*)ポワ~ン
翌13日~にわかに順風がふきだし、一行は壱岐の島についた。
同月25日午の刻(pm12:00)順風を利用して対馬を目指して出船。((((((((((っ´▽`)っ
同月27日未の刻(pm14:00)それから順風だったので、対馬豊崎の浦、鰐の浦、葛の浦の三ヶ所に頼房&相良一行の船は泊まった。(* ̄・ ̄*)Vブイ
さてここからは日和(海上の天気)を待つ| 船 |_ ̄)じー
同月29日~、御船一同で釜山海に着船し、ハマン(咸安)・ウル山(蔚山)を固め、御陣をはられた。
高麗は日本から北西に当たる。
日本から釜山港に渡り、そこから上陸して北に、ととねき(東莱)・くちゃん(機張)・せつかい(西生浦)に向かう。
上陸して十三里で蔚山・西生島より七里、大よそ蔚山はせつかい(西生浦)より八里、南のかも島(唐島・巨済島?)・きんむら(金海)・竹島・かや(伽耶?)・ちやわん(昌原)・かく島(加徳?)・そてん(泗川・そせん)、これは南の端である。
日本勢は皆釜山港に着船し、それぞれの地方を領地として受取り、城を普請して在番した。
小西と清正の一番争いとか、島津義弘が遅刻したことなんかは、
相良には関係ないので出展元には書いてません^^。
諸将や総大将である宇喜多秀家が京城に入ったのは、一番隊到着の翌日、5月3日です。
その5月3日に島津義弘は、やっと釜山に到着します。
島津内部が揉めていることは、周り廻って相良にも関連してくるのですが、それは・またの話 by^-^sio