事件は再び肥後で起きた!
文禄元年(1592)年6月~朝鮮の役で出陣中の加藤清正の留守を狙って、一揆が発生!
首謀者は島津家臣・梅北国兼(推定年齢50~60代)大隅国湯尾地頭~得意分野・水軍!
出展元・宮之城島津氏編纂『征韓録』~島津義久主朝鮮渡海恩免之事(附)家臣梅北一揆之事より
https://history.blogmura.com/his_sengoku/ にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代
梅北家は大隅国人・肝属氏庶流で、南北朝時代では島津家と敵対していました。
戦国期に島津配下から⇒家臣団に組み入れられたわけですが、
地頭という立場+世代などを鑑みると、梅北国兼には国人気質・体質は色濃く残ってたと思います。
結果から言うと「一揆は鎮圧」されるのですが、梅北の犯行動機には諸説あり、さらに一揆後の影響が大きいこともあり、謎の多い「事件」です。
某町の某郷土史家(つまり誰か忘れた^^;)は「島津義久による教唆」を匂わせています。
その傍証として「義久の元へ、梅北の部下が使者として、一揆失敗の報告をしたが、使者は極秘のうちに消され関わりは無かったものと揉み消された」事実を挙げている。
(出展元記載なし、郷土資料か?)
道産子の自分が物申すのも憚られるが、少し勘ぐりすぎだと思う。( ̄O ̄A 汗フキフキ
教唆しようがしまいが「失敗した一揆の首謀者からの使者」が来たら、即始末するに決まってる。
それに「義久教唆説」が弱いと感じるのは「国人を扇動するリスク」が考慮されていないからです。
一揆の扇動なんてリスク恐れずヤッチャうのは、東北の誰かさんのような怖い者知らずの若い世代のやること。
50代後半以上の年齢の戦国大名なら、国人の扱いに散々散々さん~ざん、苦労して骨身に沁みてます。
敵を攪乱するために「敵側の国人を扇動する」ことはあっても、「自国内の国人(半ば家臣化してるとはいえ)を扇動する」とは、ちと考えにくい。
為政者が体制強化のために「ちょっとしたデモ(一揆)を起こさせて鎮圧する」という手法が無い訳では無いが、一揆が飛び火したら収拾がつかなくなるのは「肥後国人一揆」で証明済みだ。
どれほど裏で取引・交渉しようが、最後は「秀吉の機嫌次第」だからヤバすぎる。
言い訳に十字架を背負ったり、白装束になるのは一人で充分∴,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
生来、慎重で用心深い島津義久には「一揆の教唆」は似つかわしくない。
自分の前提~「島津義久は梅北一揆には無関係~ただし後処理を政治利用した説」で話を進めます(* ̄・ ̄*)Vブイ
最近では、この研究の第一人者である史家・紙屋敦之氏の唱える「領地問題が原因説」が有力らしい。
かいつまんで言うと、九州制覇まで「あと一歩」だった島津氏は「九州の役」で敗れて、「大隅・薩摩」に押し込められた。
肥後・日向に領地を持っていた島津家臣はオールナッシング~ゼロ資産。
領地を失った島津家臣らには、大隅・薩摩国内で領地補てんをするのが本来の筋なのだが、
島津家では、それをしなかった・・・・と、いうより出来なかった・・・と言った方が正解かもしれない。
どこの地方でも一緒なのだが、豊臣政権誕生は「兵農分離」と同時に「国人が家臣化」する過渡期でした。
大隅・薩摩国内における既存領地を寸土たりとも削ろうものなら、本貫地を死守すべく国人はもとより、分家・支族が黙ってない。
とてもではないが、領地補てんは不可能(::)
島津義弘は領地の代わりにすべく(撫育金みたいな感じ?)八方金策に回り苦労したらしい。
忠恒(初代藩主)の代になると家臣を粛清して領地を・・・ゲホグホ失礼!
日向に領地があった上井さん(日記で有名)が、九州の役後に隠居したのは、その辺に事情があったんじゃないだろうか。
で、紙屋氏の研究によると「天正20年4月に、寺社領整備と共に地頭職分の返納について評議」があったそうです。
天正20年とは文禄元年でして、西暦でいうと1592年・・・ズバリ梅竹一揆のあった年。
結果は寺社領のみ整備して、一部領地を捻くり出してるんですが、4月領地評議で一揆は同年の6月。
湯尾地頭の梅北が己の地位を脅かす施策に「一揆を起こした」というのが氏の持論です。
梅北国兼は島津4兄弟の父・貴久の代から仕え、島津の「大隅統一」に大きく寄与した。
その後も活躍し、島津北征(岩屋城の時)には島津水軍を率いている。
それが「領地返上(上知ですね)」となったらブチ切れるだろう。
一族郎党を、どうやって養えというのか、梅北国兼は江戸期リーマン侍じゃない「国人あがりの戦国武将」なんです。
自分のなかの国人に対する考察(とカッコ良く言ってみる)から見て、紙屋氏の説が一番しっくり来る。
文禄元年(1592)年4月?日~梅北国兼は地頭職の領地返上が評議されていると知り、一揆を決意した
文禄元年(1592)年6月5日~島津義久~肥前・名護屋にて豊臣秀吉の饗応を受ける。
修理大夫義久は年老の為、起居が思いに任せず、その上、持病があった。
殿下はそれを聞き及ばれ、兵庫頭義弘父子に命じて、領国の士卒を率いて朝鮮に渡海させた。
義久は、この(秀吉の義久への心遣いに対する)御礼の為に、名護屋に参陣し、殿下に褐し奉る。
饗応と丁寧な御言葉を賜り、喜悦浅からざる処
・・・つまり秀吉の機嫌が良いので「ホッ」としたとこ^^b
そんな中、梅北宮内左衛門国兼・田尻但馬という者が、島津義弘に従軍する筈が、肥前国平戸の辺りに留まったままだった。
むろん一揆を企てるためで、チャンスを窺ってたんです|壁 |_ ̄)じー
(梅北らは)「主君の仰せ」と偽って、薩・隅・日の悪党らを招き、都合2,000余人を糾合した。
6月14日~梅北らは(加藤清正が不在で留守の)肥後葦北郡・佐敷城を攻撃
朝鮮に既に渡海した義弘らは「兵が遅いなぁ」と気を揉んでました^^
そして名護屋に滞陣している島津義久も、一揆勃発を未だ知らずにいたのだが、それは・またの話 by^-^sio