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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【相良頼房34_梅北一揆2・檄文】

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前回、柿も裸子・・・書き漏らし~九州の役後の仕置きで、日向にも島津領が残ってた^^
島津豊久~佐土原領・島津久保~真幸院・島津義弘~大隅の他に諸県郡1,400町が安堵です^^
でも島津家臣に分配するには、ぜんぜん足りません~~~_| ̄|○ il||li 
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梅北の一揆の動機には「秀吉の朝鮮の役に対する批判」というものがある。

今まで、一揆は僅か数日で鎮圧されていたことになっており、今回出典でも鎮圧された期日の記載がなく、あえて曖昧にしたのでは?と勘繰りたくなる。
近年の研究で一揆は半月も粘ったことが判明し「別働隊もいたらしい」ことが解って来た。
てことで注目されて三省堂の教科書に「梅北一揆」が載ったそうだ(自分は未確認)

それで自分も上記の説に傾いていたのだが、再リサーチで「梅北が国人あがり」監修様情報で「紙屋氏の説」を知って、
「朝鮮の役に対する不満」は後世の後付けではないか?と考えるに至った。

九州の戦国大名に「朝鮮の役」を喜ぶ者などいない。
軍役の負担がマッハ涙目なのは勿論だが、どこも大なり小なり明国は貴重な交易(倭寇込で)相手だったのだ。
朝鮮(+援軍の明国)と戦になれば交易は途絶えるし、秀吉が「海賊禁止令」出したから倭寇も大っぴらには出来ず収入が途絶えた(;;)あぅ

豊臣政権からくる(過重な)動員兵数を果たすために、各大名たちは片っ端から徴収かけるものの、それを嫌った領民たちが田畑を捨てて逃散してしまい、困った豊臣政権では流れ者の山伏とかを強制徴兵したほどだ。
それらの声なき民の声が、前時代の領主だった梅北を懐かしがり、神として祀ったのではないだろうか。

では「朝鮮の役」が一揆の動機に全くの無関係かと言うと、そうでも無いだろう。

キーは「梅北が大隅国人+九州の役後に大隅国は義弘に安堵された」だと睨んでいる
梅北国兼は島津義弘に従い、朝鮮へ渡海するはずだった。
ぶちゃけ梅北は、義弘に従うのがイヤだったんじゃないだろうか?

これには島津の御家事情が深く絡んでいると思う。
一応、島津義弘は島津家17代目当主・・・ってことになっているが、
研究者+オタの間では「義弘を当主としてカウント」するか未だに意見が分かれている。
(今はカウントする方が主流らしい)

理由はカンタン・・・歴代島津家当主が所有し、当主の証である「御重物」が、義久から義弘に譲られてなかったからです。
当主所有=個人所蔵だった「御重物」は、昭和終戦後「この先、個人が守る続けるのは厳しかぁ」ってことで、時の当主が東大の研究室に預けた。

結果、御重物の研究が昭和後期に進み、義弘に正式な家督相続が為されていなかった事が判明したんです。
ネット上で「御重物」の情報が少なくって~^^;
「国宝指定・島津家文書←コッチで検索すると一発なんだけどね(苦笑」の事だって解るまで1年以上かかったのは懐かしい思い出(*´艸`)

てことで「御重物を所持しない者」は、いかほどの権勢があっても、島津家中からは当主とは認められない。
豊臣政権が「御重物」のことまで知ってたかは不明だ。
だが(御重物を所持する)亀寿姫(義久末娘)を、義久が正当後継者にしているのは知っている。

だから亀寿姫の人質の任を解くのは許さないし、帰国に関しても一度の要請でOKされたことがない。
(関ヶ原前後も帰国許可は降りず、密かに大坂を脱出し義弘と合流して帰国した)

島津家が義弘を当主としたのは、あくまでも形式上のことで、国許では長兄・義久が実権を握っていた。
豊臣政権では島津家中を分断するために、義弘に大隅国を新恩として安堵するだけでなく、あくまでも義弘を当主として立てつづけた。

冒頭で挙げたように、義弘の嫡男・久保に対しても日向の重要地・真幸院が安堵。
島津義弘には「豊臣姓(本姓)」「羽柴(名字)」が与えられ、義久には「羽柴」のみと差別化している。

さらに豊臣政権と島津家のパイプ役である家老・伊集院忠棟に対し秀吉から直々に大隅国のうちから肝付一郡が与えられている。
(一時は伊集院に大隅国そのものを安堵という案もあったそうだ。)

肝付郡は梅北家の本家・肝属氏の本貫地です。
島津義弘や伊集院は、親豊臣派として優遇・エコヒイキされ、これまで労苦を共にしてきた者らが蔑ろにされている。

不満・不安が募るところに、文禄元年(1592)年4月の評議での「地頭職の領地返上案(結果として実行されなかった)」が、トドメになったのだろう。

義弘派・義久派の融和として亀寿姫と義弘嫡男・久保が結婚するのだが、リアル存亡の危機をビシバシ感じてる湯尾地頭・梅北には、今後の保証となるものではない。

島津家中において「島津義弘に従い渡海する」ということは「親豊臣派」とみなされることになる。
分家筆頭の薩州家も義弘と共に渡海はしたものの、義弘配下として編成されるのを拒否して戦をサボタージュしている。
(これが秀吉の知るところとなり、薩州家は改易処分をくらう)
筆頭家老の伊集院忠棟も朝鮮に渡海し、島津家中における「親豊臣派は不在」となった。
現状(九州の役後の仕置き)に不満を持つものが、一揆を企むには絶好のチャンス(* ̄ー ̄*)
梅北が一揆を起こす場として肥後・葦北郡・佐敷城を選んだのは、島津水軍を担当してたのが大きいだろう。
佐敷城の遺構をネットで見ると、かなり堅固な石垣で加藤清正が佐敷城を重要視していたことが窺える。
城を堅固に~という期待からか、城代には石工集団・穴太衆の在地出身・加藤重次を配した。
が肝心の城のエキスパートも、加藤清正と一緒に朝鮮へレッツGO((((((((((っ´▽`)っ

葦北町は「相良氏が降伏後~九州の役まで」島津が領しており、一揆加担者を糾合しやすい。
実際、在地の庄屋・農民・町人などが一揆に加担している。
水軍担当だった梅北は、佐敷城周辺の在地豪族とも知己だったのではないだろうか。

湊町だった佐敷町は球磨・日向・大隅・薩摩へと街道が通じていた。
かつて国人が分割統治していた肥後で一揆を起こし、「天正の肥後国人一揆」のように各地に飛び火するのを期待したのだろう。
(これは第一人者の紙屋氏が唱えている説・水軍うんぬん部分の自分が加味)

アグレッシブな梅北国兼は「チュギャザァ~しようぜ」_φ( ̄ー ̄ )メモメモ
と、一揆加担を呼びかける檄文を送った。

原文は解らないが宛先で判明してるのが、まず対馬。
でもって我らが相良にも「一揆への招待状」が届いたのだが それは・またの話 by^-^sio

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