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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【相良頼房36_梅北一揆4・決着】

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犬童休矣は士分30余名で(一揆鎮圧の)救援に向かった。
しかし梅北一揆3で紹介したように、既に首謀者の梅北国兼は討たれていた。
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八代に向かっていた一揆勢の東郷甚右衛門(別働隊か?)が国兼死去を知って、佐敷城に戻る途中の佐敷川の橋で、相良とバッタリ出くわし交戦。
相良は一揆勢の首級40を討って、名護屋に送った。
ちなみに菱刈源兵衛の嫡男・将監クンは、手傷3ヵ所負いながら立派に初陣の務めを果たしました(*´艸`)

梅北一揆の第一報は義久の報告だったらしい。
国元からの注進により知った義久「はぅ( Д )  ゚  ゚」絵文字通り目が飛び出るほど驚き、
すぐに石田正澄(三成の兄)に依って、事情聴取された。(義久は名護屋にいた)

秀吉は報告を聞くと、「朝鮮渡海の始めに不意の変に及ぶ事は吉兆ではない。これは義久の罪である
と怒り心頭(=怒りレベルMAX)である処、大納言(徳川)家康卿が御前に現れm(_ _)m

家康「御怒りは御尤もですが、義久は当陣に参り、義弘父子は朝鮮に渡海し、その上、義久の息女と義弘の妻女は聚楽に勤めておりますれば、誰がその子弟を忘れて反逆を企てましょうか。義久を罰する事は如何なものでしょうか
と頻(しき)りに言上した為、秀吉も怒りを和らげ義久の帰国を許した。

関東・東北の申次(もうしつぎ=受付窓口)だった徳川家康は、今までのフィールワークの関係もあって西国大名に馴染みは少ない。
家康は薩摩に厚意を用いることで懇意になりたかったのだろう。
家康の取り成しを島津義久がどう思っていたか、出展元の「征韓録」には記載されていない。 
家康の義久へのアプローチは常に「片思い」だったようだ^^

てことで義久は薩摩へ馳せ帰り、梅北と与(くみ)した者の一族を罰しようとしたが、その命が下る前に、既に留守居の者らによりその者らは悉(ことごと)く誅殺されていた。

義久は、その旨を記して名護屋へ送ったものの、秀吉は義久の報告を見て怒りが復活。

一揆を唆した者が島津家にいるはず!その者たち全員・10が20になろうとも首を刎ね、京都へ送って来い!祁答院(けどういん=弟・歳久の事)が、その反乱者の支援をしていた!祁答院の首を刎ねよ!
島津義久への通達は、義久の友・細川幽斎を介して伝えられた(祁答院~4兄弟の3男坊歳久の領地で、そのため歳久は祁答院と呼ばれていた)

義久・・・_| ̄|○ il||li

どうにもならなかった・・・・天下人の口から祁答院の名が出た以上、逃れる術はない。
5年前の天正15(1587)年の3月頃から、歳久は中風を患い病の床についた。

秀吉に最後まで抵抗した反骨の英雄・・・後に戦の神として祀られた「金吾さぁ(これも歳久のこと)」だが、
もともと秀吉の実力を認め和睦を唱えていたのは歳久だった。
だから秀吉へ抵抗した歳久の「心変わり」の理由には、諸説あってハッキリしていない。(or家臣の暴走?)

梅北一揆が情報操作された(らしい)と、言われているように、影の首謀者として処断された歳久に対しても、隠ぺい・隠匿工作が為されている可能性がある。
なぜなら「歳久関連文書(受取人が歳久の書簡29通)」はあるが、「歳久文書(差出人が歳久)」が一通も無いからです。

文禄元年(1592)年7月18日・・・島津歳久は実の兄・義久の討手によって成敗された・・享年56歳
国人オタであると同時に、島津ファンである自分にとっては、これほど悲しいことはなく、歳久の死の様子を記事にするのは、胸が潰れるような思いで、ガチ涙でPCが見えなくなるので割愛します( ̄人 ̄)☆彡~~合掌。

京都で罪人として晒し者になった歳久の首は、従兄弟の島津忠長が奪い返して隠した。
(故郷に埋葬し直されたのは明治後の大正時代)
義久は秀吉の死後、速攻で歳久の菩提寺を建てて供養している。

下戸だった義久に代わって、酒を飲むのが歳久だった。(そんなだから中風・・・ゲホグホゴホン)
戦国時代には珍しく仲良しで、協力し合って生き抜いてきた・・・決して弟の死を望んだ訳じゃない。
だが、それでもなお、島津宗家のために「歳久の命」が必要だったんです。

いつの時点かは解らない・・・だが義久は弟を犠牲にする道を選んだ。
家族への情愛と、当主としての決断は、交わることの無い別義のものだ。

そして「非常の決断」が出来る人物でないと島津当主は務まらない。
それほど分家と国人たちを束ねるのが大変だったんです。

当主以外に衆望を集める人物は不必要。
逆らう家臣の粛清は必須。
だがそれは義弘では出来ない。

島津内部で「正式な家督相続を受けていない義弘」が、歳久を犠牲にしたり、家臣を粛清しようとしたら、おそらく島津家中の何者かに暗殺されていただろう。

時代は戦国の荒々しい気風のままだし、義弘をプッシュする豊臣政権は太閤検地と刀狩の前で、まだ権力基盤が不完全だからです。
従って歳久の処断は、長兄である義久でしか為し得ないことです。

一揆実行犯・梅北国兼の子供は全員殺されたわけではなく、捕縛を逃れて密かに生き延びた者がいたらしい(詳細不明)梅北の妻は名護屋に連行され、秀吉が「ハァハァ)ワシに仕えよ」と言ったのを拒んだので、火あぶりの刑に処せられた
あ~「秀吉が~拒んだので」までは「女好き伝説テンプレ」ですのでスルーしてください,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
だって梅北が推定50代後半~60代なんだもん、妻の推定年齢だって・・・ねぇ^^;

梅北の妻の最期はフロイスが日本史に書いてるので、興味ある方は図書館などで読んでみてね^^

文禄元年1592年8月3日~徳川家康が細川幽斎に、おてまみ書いた_φ( ̄ー ̄ )カキカキ~
家康「(幽斎が)歳久成敗を(秀吉に)申し上げた事は肝要である_φ( ̄ー ̄ )グッジョブ~

幽斎さん・・・ほんとの悪は、あんたはんでしたんか?それは・またの話 by^-^sio


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