細川幽斎・・・室町・安土・桃山・江戸・・4つの時代を生き残ったモンスター
某元首相の雑誌インタヴューより「いやぁ、うちには解読されてない古文書は、まだまだあるんですよ~」だそうです^^;
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秀吉は、島津義久の「一揆鎮圧報告」に逆切れしたのではない、細川幽斎が秀吉に「祁答院(歳久)処分」を囁いたんです
首謀者・梅北国兼の思惑は外れて、一揆は「肥後一揆」の時のように飛び火しなかった。
檄文送付~お誘いした相良家も対馬も一揆には加担してくれなかった。
対馬に至っては|壁 |_ ̄)じー って様子見して、一揆勢が不利となるや鎮圧側に加担する始末だ。
肥後国人一揆で、名のある領主を悉く成敗(生き残った者も本貫地から引き離された)したのが効をそうし、肥後は結果として、未分化ながらも強制兵農分離状態となり、生き残った在地の豪族たちも一揆に呼応しなかったんです。(肥後国人一揆の残党は参加してたっぽい)
梅北の妻を名護屋で火あぶりに処したのは、豊臣政権に威光を示す格好のデモンストレーションだった。
梅北の妻が毅然として刑を受け入れたのも、「逆らっても無駄だ」と示すのに、より効果的だったことだろう。
肥後の地ならしは、ほぼ完成した・・・・となると不穏なのは島津の方だ。
「反豊臣派」と目されている島津義久と弟・歳久。
祁答院・歳久は「金吾サァ」と家中から慕われ衆望を集めていた。
さらに5年前から中風を発病し、起居が自身でままならない状態でして、反豊臣系家臣が暴走・ヤンチャする時に「神輿」として担ぎ出すのにもってこいの人物だ。
歳久を成敗することは不安要素を取り除くだけでなく、反豊臣派に豊臣政権に威光を思い知らせる絶好のチャンス。
が、歳久処分を不服とし「城明け渡しをガン拒否」「籠城慣行した者たち」がいる。
籠城したのは亡き歳久の妻と、その娘・・・W未亡人の~ファイトーー!( ゜ロ゜)乂(゜ロ゜ )イッパーーツ!!
(娘の方は夫が(婿養子で従兄弟)根白坂の戦いで討死してます)
ちなみに歳久の妻も、義弘夫人のように家格は高くない家来筋出身。
歳久夫人の才知・気性に惚れこみ、歳久が正室に向かい入れた(*´艸`)ラブラブ
歳久の娘も母に似てキツイ・・・ゲホグホゴホ・・・え~と、そう!烈女でして( ̄0 ̄A 汗フキフキ
後に自分の再婚相手を逆指名し、叔父・島津義弘に対し強行に捻じ込んで、要求を通してます( ̄0 ̄A 汗フキフキ~薩摩おごじょは強か~
あと、歳久には側室がいましたが、こちらは籠城前に城を出て日向へ行き、島津義弘の保護下に入ってます。
( ̄0 ̄A 汗フキフキ~苦労してます義弘~
そういう母娘なんで、夫を処断した島津義久の説得なんて聞く耳持たず~
文禄元年(1592)7月20日に籠城開始。
(事情が事情なんで、義久も無理な攻撃は出来ない)
手に余った義久は諸悪の根源・・・もとい、友人である細川幽斎に説得を頼んだ。
幽斎「(O ̄∀ ̄)ノ~奥方たち~亡き歳久嫡孫・常久チャン2歳が成人したら旧領(祁答院他1万8千石)を復活させますよ~」
と同26日に義久、幽斎の連盟で誓詞を出してるが母娘は信用せず無視。
義久は新納忠元を派遣し説得させ8月11日、ようやく開城させた。
(新納とのやりとりは不明)
もちろん島津宗家でもアフターケアし、後年に祁答院で復活は出来なかったけど、代わりに日置に領地を与え「日置島津家」として残ります(* ̄・ ̄*)Vブイ
祁答院は島津義久の直轄領となった(てか余人が領したらガチで揉めて収拾つかなくなる)
宗家の直轄領が増えるのは、秀吉の意向に沿ったものでした。
一見、矛盾してるようですが「朝鮮の役」を円滑に運ぶためには、領内の抵抗する国人たちを島津宗家に抑えてもらわなければならないからです。
「外征」のために「内政を固め(内部締め上げ)る」って「どこの帝国主義かよ」って感じで、朝鮮の人たちだけでなく、国人を愛する管理人にとっても、秀吉の遣り方は全く腹立たしい限りです。
プラス「朝鮮の役の軍役(兵糧自前)もシッカリやれよ」ってプレッシャー有り^^;
通常の戦では長期・遠隔地の遠征だと蔵米地(所領とは別・兵糧調達のための貸与)が与えられるんですが、日本全国の戦国大名が関わるので、島津だけに蔵米地を用意することは出来ません。
どこまでも「自分で何とかしろ」なんです~
「大変だろうから歳久を始末して、宗家の直轄地増やしたらいいよ!(O ̄∀ ̄)ノナイスアイデア~」
・・・・まったく余計なお世話ですな ( ゚Д゚)y─┛~~
宗家・直轄地となった祁答院(けどういん・現川内町)の検地は、細川幽斎が行った。
島津の検地というと石田三成が(オタには)有名なんですが、この頃の三成は朝鮮で武断派と揉め・・・・・・アワワ~~~アタヘ( ̄△ ̄:)ノミヽ(: ̄▽ ̄)ノフタ
~~えっと、朝鮮に出陣で不在でしたので、島津家と交際が長い幽斎が務めた。
だが細川幽斎の政治力をもってしても検地できたのは祁答院のみで、他の島津領は家臣たちの抵抗が激しく出来ませんでした( ̄ー ̄A 汗フキフキ
祁答院ですが、その後がオタ的には非常に興味深い ( ̄ko ̄)チイサナコエデ
文禄4(1595)年の検地からみで「日向・都城」が、豊臣秀吉エコヒイキの伊集院忠棟(島津筆頭家老)に与えられた。
都城は島津分家・北郷(ほんごう)氏の本貫地~宗家を支えつつ頑張って死守してきたのにアッサリ没収。
怒りで額の青筋プルプル北郷を宥めるために、宗家は身銭(直轄地)を切って祁答院を与えた。
んで、伊集院忠棟が島津忠恒(初代藩主)に粛清され、怒った伊集院の嫡男・忠真が「庄内の乱」を起こした。
んで慶長5(1600)年に鎮圧され、空いた都城に北郷が執念の復帰(* ̄・ ̄*)Vブイ
んで空いた祁答院は、亡き歳久の首を奪還して隠した島津忠長に、多年の功績として宮之城と共に与えられた。
その島津忠長の系譜が「宮之城島津氏」となり、梅北一揆のソースとなった「征韓録」を編纂するんです。
「島津歳久文書」を隠匿・処分するとしたら、島津義久と島津忠長あたりでないか~~~と睨んでます(* ̄ー ̄*)ニヤリ
~史書編纂する家が怪しいよね!
祁答院領は島津の御家事情で、領主が二転三転するという数奇な運命を辿ったが、似た事例は日本各地にあったことだろう。
さて、島津内部の事情を語るとキリがないので、この辺でお開きとして相良に戻ります。
我らが相良家も、お約束通り揉めてましたが、それは・またの話 by^-^sio