文禄2年(1593年)相良頼房公は、清正と同道して安辺から高麗の都(漢城)にお出になり、そこから諸軍勢は元の陣にお帰りになった。
頼房公は清正と一緒にセツカヒ(西生浦)に在番した。
出典「南東曼綿録」より
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争乱は、主君・頼房が朝鮮出陣で不在の時に起きる
家中の争いは、加藤清正と石田三成をも巻き込むこととなる
上司・深水頼蔵(年齢不明だが頼兄よりは年長さん)、部下・犬童頼兄。
文禄2(1593)年現在、共に主君・頼房と共に朝鮮へ出陣しているのだが、実は渡海前に一悶着あった。
頼兄が切れ者過ぎるのか、性格もキツイのか、上司なのに頼蔵は仕事に関して手も足も出せなくて、(頼兄の事務処理能力に対応できない)おいてけぼり。。(ω・`))ポツーーン
男女の別なく職場がこれでは辛い・・・( ̄ー ̄A 汗フキフキ
頼蔵は「魯鈍」って記録されてるくらいだから、そもそも能力以上の地位なわけで、気の毒と言えば気の毒なんだが、この後の頼蔵を見るに「器量も人の上に立つガラじゃない&どうにも小物臭がする」
朝鮮への渡海命令が下ったのだが、深水頼蔵は拗ねて出社・・・もとい出陣拒否して山田に御籠り。
.......ドウセワシナンカ、頼兄ガイレバイインダシ・・・・( ___ ___)σイジイジ
頼蔵を深水家の跡目にと推薦した深水一族の竹下監物が
コッチコイ!( ̄- ̄ )o―――――∞C頼蔵
と説得され、んで心配した主君頼房が(二人に協力し合って欲しい)という願いを込めて、頼蔵と頼兄に「相良姓」を与えたんです。
鬼(武闘派)がいぬ間に太閤検地~~
ウィキ~の記述だと、豊臣秀吉は統一した国は、都度検地を行っていたとあるが、島津のように家臣の抵抗が激しいとこだと、一度では終わらず(出来なくて)五月蠅い連中が朝鮮出陣中にリベンジ検地してた。
相良家にも出陣中の文禄2(1593)年に太閤検地が入ったんです。
その太閤検地がキッカケで(当事者は朝鮮なんだが)深水一族と犬童一族の対立は増々酷くなってしまった。
検地で生じた租税納入分を賄う為、「無駄に高録の者」の領地や寺社領の召し上げ(没収)が行われ、その一番最初に竹下監物、その子・外記、その儘(まま)子・中道坊、竹下監物妹聟の蓑田大隅らの領地が奪われた。
領地土地整備っていうと、寺社領が整理対象に上がるのは鉄板なんですが、無駄に高録な者リスト一番目に上がるって、どうなのよ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
竹下監物はこれを犬童頼兄の計略と訝った為に不穏な状況となり、深水一族600人は湯前城に籠城する
竹下監物とは何者なのだろう・・・
深水一族なのは、まず間違いない。
竹下・・・姓が違うから庶流。
諱は不明。通常呼ばれている監物は、本来は官名で(多分自称)号じゃないから隠居はしてない。
年齢が判んないなぁ・・・嫡子の領地・・・成人に達した子供がいるので30歳以上は確実。
深水家の家督に関し「意見具申(頼蔵を推薦した)」出来たから家格も悪くない。
それどころか湯前城に600人も糾合するのだから、深水一族内で相当の影響力があったのだろう。
だが、その割に深水宗芳生前での逸話が見当たらない。
竹下監物は深水宗芳の後継者に、深水頼蔵を推薦し、その後ろ盾になることによって、深水一族内で重きを置くようになったのではないだろうか。
逆に魯鈍・頼蔵には竹下の後押し(後始末&フォロー)が欠かせなかったわけで、竹下の勢力が削がれたら、(頼兄より仕事が出来ない)深水頼蔵の立場は悪くなる。
竹下が領地没収を「頼兄の陰謀だ」と疑ったのは、そのあたりから来てるかもしれない。
頼蔵に竹下のフォロー必須なように、竹下の権力基盤には頼蔵を相良家老職に据え置く必要があったのだ。
あと「梅竹一揆」から檄文が届いた時の評議で「休矣の言葉( ー`дー´)キリ」が主導権握ったのも面白くなかっただろう。
朝鮮にいた相良頼房は国許からの知らせに深水頼蔵を呼び出し詰問するが、頼蔵は「自分は関知していない」旨を伝えた。
頼房は籠城した者らに切腹を命じ、竹下監物ら数名が切腹して事態は一応の沈静化をみたが、頼蔵と頼兄が ♪和気( ̄▽)人(▽ ̄)藹々♪ になれるわけもなく、
対立は増々激しくなるのだが それは・またの話 by^-^sio