相良家家老・犬童頼兄・・・
彼の「幸福」は、関ヶ原という戦国最高の檜舞台で、思う存分自分の器量を活かせたことだろう。
同時に彼の「不幸」は、余りにも大きな功績を立てたことだった。
彼の主君・相良家20代目当主頼房は、剛毅な猛将タイプで、家臣である頼兄の才覚に嫉妬するような狭量な人物ではない。
むしろ「ワシだからこそ頼兄を召し使う事が出来るのだ」という自負があったんじゃないだろうか。
だからこそ「ワシの死後、犬童一族をコントロール出来る者がいない・・・」と後の禍根を恐れたと推測している。
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(幸麿さま作画:相良頼房イメージ画像)
法廷からトンズラ?ドタキャン?こいた深水頼蔵は加藤清正の庇護の元、第二次朝鮮の役で加藤軍に従軍して行った。
半ば自業自得なのだが、もはや相良家には深水頼蔵親子の居場所は無く、加藤清正と共にあるしかない。
同じ組(陣)に所属する相良と加藤の関係は・・・
と思わないでもないが、何しろ清正は太閤の親戚で子飼いで肥後半国の領主だ。
2万石の相良家とは勝負にならない。
相良家が多少 |何か言いたそう|x・`)チラッ としてても、清正が石田三成と敵対している限りは三成への嫌がらせの為に深水頼蔵親子を匿い続ける。
(三成は深水頼蔵の捕縛命令を出してた)
てか家中の対立が外に漏れるのは決して外聞の良いものではなく、相良家にとっても騒いで恥の上塗りは避けたいだろう。
この問題が尾を引かずに済んだのは、当の深水頼蔵が蔚山城で戦死したからです。
当事者不在では話にならない。
相良家と清正の間にどうこうは無いが、清正の三成への遺恨が増しただけで終わった。
・・・・なんか三成が気の毒な気ガス・・・・ここまで嫌われるってどうなんだろう・・・
三成に限らず、権力の頂点にある者は孤独だ。
深水一族というライバルを退けたのと引き換えに、相良家中で頼兄は急速に孤立していった。
慶長2年(1597)2月・・・深水頼蔵出奔後に頼兄が東喜兵衛(主君・頼房の祐筆)に宛てた言上書には、
「諸人が憎しみを持っても、顧みない程の御奉公をするほどの人物こそ、忠貞と思し召される者だ」と書かれており、
またその翌月には、頼兄が 東・犬童・稲留の三氏宛てた書状には、
「自分には御家中では気心の知れた人は一人も居ない」とある。
魯鈍とはいえ上司に何も言わせない状況を作ったほどだから、もともと同僚としての頼兄は近寄りがたいムードがあったかもです。
それが相良家の主導権を握ったのだから、気安く声をかけられたりとか、屋敷飲み会にも声がかかることが無くなったんじゃないだろうか。
後年の頼兄の失脚は、この孤独が招いたものだろう。
ちなみに頼兄が手紙を書いた3人が誰かなぁ~と監修様に尋ねた。
★手紙を出した相手・・・可能性として一番高いのは、頼房の祐筆・東喜兵衛(朴河内城での失態を演じた東頼一ですね)、犬童は犬童弥助、稲留は稲留宗左衛門でしょう。
犬童と稲留は共に、竹下監物征伐の際の使いの役を務めています。
話の本筋には全く関係なかったんだけど、記録として残しておきたいので、ここに記します。
ん~~~なんか空気が重いなぁ~なんかパァっと騒げるネタないかしらぁ~~~~~
豊臣秀吉・・・慶長3年8月18日(1598年9月18日)に死亡
騒げない・・・ il||li _| ̄|○ il||lズゥゥ~ン
慶長4(1599)1月11日~相良頼房が従五位下に叙されました~~
御祝い御祝い~~φ(-ω- )カキカキ_φ( -ω-)ノ[才×〒├-]ペタッ
同年閏3月3日~前田利家が死去~
( ゚д゚)ンマッ!
同年6月8日~秋月家の息女・竜子と相良頼房が祝言・結婚・婚儀~~
祝言~~♪同じアホなら♪ヽ(^^ヽ)♪(/_ _ )/♪踊らにゃソンソン♪
ケコ~ン~~√( ̄‥ ̄√どじょうすくい!
高砂や~へ(´∀`へ)ヨイヨイ♪(ノ´∀`)ノヨイヨイ♪
あぁ~~~~~~~~~ここまで長かったぁ~~~~~~~~~~~~~~~
やっと相良家と秋月家が繋がったぉ~~~
そもそも国人オタの管理人が、相良家に目をとめたのは「秋月竜子が相良頼房と再婚」してたからなんです。
ネット検索では婚儀の日時も不明だったし(監修様、資料提供感謝!!)
竜子の再婚相手を探すことに超苦労(相良頼房から検索すれば一発なんだけどね)したのも懐かしい思い出です^^
さて、関ヶ原~その前に相良家の「第二次朝鮮の役」です^^b
それは またの話^-^