相良家と秋月家の接点は、もう一つあります。
それは朝鮮の役です。
話を慶長4年から慶長元年に戻します^-^
豊臣秀吉は慶長3年8月18日(1598年)に亡くなるのですが、当時一つの噂が囁かれていました。
それは朝鮮との講和の折に毒を盛られた・・・というものです。
出典は例によって「南藤曼綿録」^^/
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慶長元年(一五九六)六月二十七日から朝鮮国・遊撃将軍(沈惟敬)が来朝して、講和の会談が始まった。
太閤秀吉は伏見にいたので、惟敬は秀吉に面会して講和の内容を述べ、しばらく伏見に滞在した。
その間に秀吉に近づき、毒を進上したという噂が広まった。
進上した毒は三年ほどで効き目をあらわすもので、毒を丸薬にして絶えず持ち歩き、御前で服用して見せるのである。
秀吉はこれを見て「(惟敬に)それは何か」と尋ねれば「(惟敬は)これは良く効く補薬です」と答え、
「もし秀吉が服用しても効くものであれば差し出せ」との要求に、
惟敬は喜んで「いかにも年齢相応に効き目がある」と奉じて提出した。
その後、惟敬は本国に帰ったが、三年過ぎて慶長三年(一五九八)に秀吉は死んだ。沈惟敬も死んだ。
まことに大国のやり方とはいえ、人を殺そうと毒薬を調合し自分も服用して見せるとは、
深い謀略による殺人だと、そのころ世間の取り沙汰をそのまま書き記しておく。
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似たような話を聴いたことあるようなぁ~~
とにかく朝鮮との講和は破談となり再び諸大名は出陣します。
慶長元年5月、加藤清正の帰国命令に伴い、組下の頼房も帰国(共に伏見屋敷に居た模様)。
7月12日に伏見大地震。
10月、相良頼房は高麗(朝鮮国)へと渡海する。
が、風に恵まれず壱岐島で年を越すことになった。
家臣らは平戸で年越し~翌年の酉年元日から海上の天気がよくなり壱岐へと渡った。
正月3日に頼房公のもとに参上し、m(__)m<明けましておめでとございます~と挨拶。
その頃から船が進むのによい風が出てきたので、一同船出し高麗のセツカヒ(西生浦)に船が着いた。
同年の5月2日にセツカヒ(西生浦)から釜山海に移動~そこに滞在。
今度は森壱岐守殿(毛利吉成)の組で、頼房、島津叉七郎(豊久)、高橋九郎(元種)、伊東民部太輔(祐兵)と秋月種長が加わり、この6人は釜山海で勤務することとなる。
個人的ドリームチーム~~~ウットリ(人´∀`).☆.。.:*・
さて、アン高麗(安骨浦)に番船(海上警備の船)が寄って来たという報告があったので、先の6人は皆それに向かい、まず鉄砲で打ち崩し、船からも半弓を使って激しく防いだ。
けれども防ぎきれずに数艘の番船はカラ島(唐島・巨済島)へ立ち退いた。
この時、稲留惣左衛門が討ち死にした。
日向衆(椎葉姓の者がいるので那須13人衆の手勢か?)の三人も討ち死にした。
番船というのは敵船のことです^-^
敵側の攻撃を防ぎきれず被害が出た・・・
猛将タイプ・相良頼房はリベンジに熱く燃えるのだが、それは・・・またの話^-^