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【相良頼房43_2再び朝鮮の役】

慶長2年(1597年)・・・相良頼房は再び「朝鮮の役」で渡海~釜山海で勤務した。

或る時、番船(敵船)が現れたとの報告に出陣し、これと交戦したのだが防ぎきれず、
同じ組の日向衆に被害が出て、さらに敵は意気揚々と巨済島に引き上げる。
猛将タイプの相良家20代目当主・頼房は、歯噛みして悔しがったに違いない。

同年7月14日~「唐島の番船を崩すべきである」と評議して決定されたので、大名衆は出陣。
藤堂佐渡守(高虎)殿、加藤左馬介(嘉明)殿の二人を大将として、唐島に番船が三百艘いたところへ、日本勢も船で攻め寄せて番船に乗り移り朝鮮人を一人残らず斬り捨てた。
〔敵の〕番船も防戦したが、日本勢に対して打つ手がなくなり勝負にならなかった。

頼房公は船を一番先に進ませて攻撃し、しきりに勇みたっておられたので当方(相良)の兵は勇んで進み、がむしゃらに番船に乗り移って番船三艘を奪い取った。
頼房公が「見せしめのためにテルマを一人その船に乗せて、そのテルマの本陣に帰すように」とおっしゃるので、(そのように)安骨浦へ返された。
高麗では男をテルマと言い、女をカクセイと言う。
南藤曼綿録より

藤堂高虎と加藤嘉明が不仲になったのって、おそらくこの時の戦いじゃないかなぁ~と思います。
頼房は、相当張り切ってたみたいですね^^

さて、全羅道へ軍勢を進める、ということで釜山海にいた頼房らへも出陣命令が届いた。
8月11日から、釜山海その他もろもろの部隊の見張り所にいる大名たちを動かして、前回(文禄の役)と同様また軍勢を進めた。

8月11日南門(南原)の城に着くと、諸大名は我も我もと陣地を取った。
15日の夜半に城を攻めた。その夜は名月で昼のように明るかったそうだ。
諸方から一斉に鬨の声を発して、がむしゃらに攻めかかった。
城からも防戦して半弓で射て軍勢を崩し、さらに石を打ってきたので負傷者や死者が数多く出た。
けれども日本勢は少しも引き下がらずに攻めかかったので、城はたまらずに攻め取られてしまった。

相良家の馬印(戦場で大将の場所を示す目印)は白い吹貫【※】なのだが、
【※】吹貫~幾条かの長い絹を円形の枠に取りつけ、長い竿の端に結びつけて風になびかせるもの
中間(奉公人・召使い)の弥七という者が差して一番に馬印(白い吹貫タイプ)を城に掲げ上げ、南門の蔵の前に立てた。
その後諸大名がみな城に入ってきて、南原に二日滞留した。

その間諸大名衆らは「相良家に許可を得て、頼房の印判状によって八木(米)等を出した。」
これは弥七さんのお手柄です。
いの一番に相良家の馬印を蔵の前に立てた・・・つまり蔵を相良家が接収したと宣言したことになります。
従って諸侯らが米などの糧秣を現地調達するためには、蔵を押さえた相良家に「お願い(-人-)」しなきゃならないんです。
相良家は大いに面目を施したことでしょう。
頼房は自慢げに鼻を膨らましながら書面に花押したんじゃないかしら(*´pq`)クスッ

こうして記録を見ていくと、身びいきを割り引いても頼房と相良勢はかなり活躍してますね。
むろん元々の動員兵力が少ないので大勢に影響を与えるほどの局面ではないのですが、キッチリと戦果を挙げてます。
ただ島津義弘や加藤清正の活躍が派手すぎて、小大名・相良家の武功は地味になっちゃいますね^^;

これだけの働きをしてるんですから、頼房は家臣である頼兄の才覚に嫉妬する必要は全くありません。
むしろ家中で孤立しつつある頼兄にとって、頼房からの信頼のみが支えだったかもです。
相良家の働きを見て、秋月種長が「妹(竜子)の再婚相手に~~」って考えたって不思議じゃないですよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
まぁ実際は外交上の配慮が色々あったでしょうけど。

さてさてマニアックな「朝鮮の役」ネタですが、もう少し続きます。それは またの話^-^

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